2018年10月6日土曜日

聖書に戻って再考する聖書の意図

聖書に戻って再考することなくしてパラダイム転換の必要性を実感することはありませんし、ましてや「C-BTEパラダイム」の確かさを実感することも困難です。なぜなら、私たちはすでに2000年の歴史の中で聖書の意図とは異なるパラダイムに基づいて聖書を読み、考えキリスト信仰を形作っているからです。それが完全否定されるものではないもの、それがゆえに聖書の意図に基づいた神の家族教会共同体を建て上げていないとしたら真剣に再考すべきです。そのために啓示の書である聖書、つまり使徒時代、その初代教会に、そしてそれに続く使徒後時代に戻って再考してみることです。啓示の書、聖書に基づいて考えない限り真の意味でのパラダイム転換は実現しないからです。

 使徒時代、主の宣教大命令に応え、逡巡しながらもエルサレムからローマへと宣教が展開していきました。文字通り地理的な広がり、信じる信者の数を増していきました。そして生まれた教会に送られた書簡を見ると、教会が様々な問題を直面するごとに、使徒たちに教えられ、訓戒、励まされながら質的にも成長していった様子を読み取れます。新たに召された使徒パウロの存在とその働き、そのパウロに示された奥義としての教会は啓示の圧巻として注目させられます。

ところが意外な反応が帰って来ます。「あのパウロの宣教によって生まれた教会はどうなったのか、とりわけ小アジアの拠点であったエペソ教会とそのネットワークの諸教会は皆無だ、世界宣教の拠点になったシリアのアンテオケ教会も今はない」、「改めて聖書に戻って再考する意味、意義はどれほどあるのか」と。

 時代の変化と共に教会の変化(いわゆる「パラダイム」の変化)に注目すべきです。聖書時代、それに続く使徒後時代の教会は息つく暇なく迫害が続いたわけではありませんが、決して居心地の良い環境ではありませんでした。むしろキリスト者であるがゆえに排斥され、時には迫害を受け、命の危険にさらされていました。キリスト教会は当時のローマ帝国の公認宗教団体でもなかったのです。しかし、キリストの神の家族共同体から次の新しい共同体へと次々と広がっていったことは事実です。そしてローマ帝国が二分三分する中でコンスタンティヌス大帝がローマ帝国の再興に力を発揮しました。そして313年、コンスタンティヌス大帝はキリスト教会を公認し、保護するようになりました。それはキリスト教会の真の意味での勝利というものではありません。むしろキリスト教会に託された奥義が変質していく岐路でもあったのです。聖書の意図とは次元の異なるパラダイムへと移行していったのです。キリストの救いが何であるのか、救われた者がどのような人生を建て上げていくのか、信仰のもっとも大切な「使徒たちの教え」の部分が省略されていきます。そして典礼中心の信仰生活へと変質していきます。世俗的なキリスト信仰に対する反動として禁欲を美徳とする修道院、もっともこの時点では共同体というより個人的でしたが、この頃から生まれています。

さらに380年代には公認宗教から国教化され、制度的安定、見た目の安定がありますが、霊的、質的には大きく後退です。そして100200年、300年と続き、「中世カトリシズム」が体系化されていきます。そして起源600年代にイスラムの出現が東方教会を拡散させ、弱体化しています。その後、十字軍の派遣で多少盛り返すも、15世紀にオスマン帝国時代に東方教会の中心都市コンスタンチノープルはイスラムの重要な拠点としてイスタンブールとなりました。東方から西方に移った教会が中世カトリシズム、ヨーロッパキリスト教世界を作り上げていきます。この延長線上に16世宗教改革が起こります。その一人マルチン・ルターは救いの確かさを求めて中世カトリシズムのパラダイムに徹して追求し続けます。その最良の道が修道士になることでした。が、しかし、ますます不安と絶望感に陥ります。そうした中で聖書に向き合うように指導され、聖書の意図を再考する中で初めて信仰の何であるかを確信したのです。こうして宗教改革の二大原理、「信仰のみ、聖書のみ」が確立していきました。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモテ3:16-17)

聖書(旧約聖書)の意図を明らかにしたイエス・キリストの教え、もう一人の助け主、聖霊によって主イエス様の意図を明らかにされた使徒たちの教え、健全な教え、キリストによる基本原則が健全なクリスチャン人生を建て上げ、神の家族共同体、主の教会を建て上げることになるのです。教会も聖霊によって主イエスが啓示された神の奥義です。それ以外の教え、議論は「信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません」(Ⅰテモテ1:4)でした。

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」(Ⅱペテロ1:20-21)。
今、必要なことは聖書の意図に添った聖書の原則に基づく聖書の解釈です。