2020年5月25日月曜日

解説:基本理解7: 「教会主体の神学教育」(C-BTE:Church Based Theological Education)


基本理解7: 「教会主体の神学教育」C-BTEChurch Based Theological Education

第一義的には信仰の「基本原則」に始まる「健全な教え」を保つために必要な働きと理解される。その地区教会での生活と教会の使命と働きに深く根ざし、成長を目指す指導者と成熟を目指す信者を育て上げるために作られ本格的に秩序立てられた学びである。

 

解説:「教会主体の神学教育」とは今そこに存在する各個教会、「奥義としての教会」を基盤として「神学する」ことです。教会は神の再創造の御業としてキリストの宣教によって集められた神の家族であり、その宣教の使命を実現するために「いのちの交わり」において「神学する」ことです。

聖書の「基本原則」から始まる、とありますが、残念ながら今日の日本語聖書(コロサイ28)では的確に翻訳されていないために初めの第一歩でつまずいてしまいます。ある意味、本格的な聖書神学がなされていないがゆえに的確な訳語を見いだせないのだろうと思われます。唯一、文語訳聖書の訳は的確(小学)です。英語版聖書も明快です(NKJVthe basic principles of the world)。いずれにせよ、用語を脇に置いてクリスチャンとしての第一歩はキリストの福音を信じることから始まります。端的に言えばキリストにあってこれまでの自分が死んで新しく生まれ変わること、その新しさ、その生き方は聖書の基本原則「健全な教え」に基づいて建て上げられるということです。

その大切な学び、訓練の場が「いのちの交わりとしての教会共同体」です。その目標が「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(エペソ413)。指導者であるパウロも告白しています。「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです」(ピリピ3:1112)。

これらの取り組みは神の家族であるそれぞれの地区教会でなされます。各教会で、と言うときに「各個教会主義」を想定する必要はありません。それぞれの家族を考えて下さい。成人男女が神の摂理の中で結婚に導かれ、互いに信頼と尊敬、神の愛情の内に子供が与えられ、大切な子育てが始まります。そして子供の自立、新たな家族誕生、いのちの交わりは広がって行きます。神の家族である教会も同様です。先輩の家族がいれば、また違った励みになります。時には助言を受け、指導、訓戒を受けつつ、直面する課題を乗り越えてきます。教会は家族を建て上げる家族、神の家族として建て上げられていくのです。

 注意したい視点は世俗社会の普遍的原理のひとつである「政教分離」の原則、「信教の自由」等々と混同しないことです。つまり、「神のかたち」としての兄弟姉妹の個々人の尊厳性を認識しつつも信仰の個人主義に陥らないようにすることです。真のいのちの共同体の秩序を大切に互いに仕え、時には訓戒、指導されながら互いの徳を高め合う神の家族を建て上げます。何よりも成熟したクリスチャンの建て上げは、教会ではもちろんこと、教会外でも非難されない、「評判の良い人」を目指すものであり、教会に託された主の宣教大命令を実質のあるもの、福音の確かさを保証する存在となるのです。

指導者も同様で、神の家族には指導者の指導者を建て上げ、主の宣教大命令に応える「牧会チーム」を構成します。そして宣教の拡がりの中で真の「教会ネットワーク」が再構築されていきます。「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です」(Ⅰテモテ315)。

2020年5月21日木曜日

解説:基本理解6:「神学教育」


基本理解6:「神学教育」

神学とは教会を生み出し、牧会していくために十分に整えられた牧会指導者たちを育てる作業である。と同時に性別職業年齢に関係なくすべての信者が「聖書的に考える能力を高める」ための生涯にわたる作業である。

 

解説:「神学教育」と言うと、学問として神学、近世になって体系化された教理的研究の「組織神学」を中心とした神学研究を思い浮かべるのではと思います。それ自体、決して否定されるものではありません。C-BTEマニフェストで注目しているのは本来の神学、つまり神のことばである聖書の意図を「神学する」ことです。これは福音に出会い、受け入れ、クリスチャンとして新たな生活への一歩を踏み出したすべてのクリスチャンが取り組むべき「神学教育」、優先すべき「神学教育」です。同時にその「聖徒の建て上げ」の延長線上に新たな神の家族、教会を生み出していく指導者たちを建て上げる基盤となる取り組みなのです。

 指導者になる、ならないに関係なくすべてのクリスチャンが生涯に渡って「信仰による神の救いのご計画の実現」に至るよう「神学する」取り組み、つまり「聖書的に考える」クリスチャンを建て上げる取り組みです。そのために毎週の主日礼拝における牧師の説教がある、と考える方がおられると思います。しかし、礼拝説教は聞き手に徹するが故に問題意識を持って臨むクリスチャンでない限り、それは決して「神学する」、自ら考えるクリスチャンを建て上げるには十分ではありません。そう言う意味では牧師、また教会の指導者たちがクリスチャンたちのために学びの基本を指導し、その上でクリスチャン自身が生涯に渡る取り組みに着手できるように備えてあげる必要があります。そのようにしてすべてのクリスチャンは「考えるクリスチャン」として、人生のあらゆる場面で知恵ある振る舞いを実現し、宣教の実を結んでいきます。

パウロはイエス・キリストを救い主として信じ、受け入れるということはどういうことなのか、そのことについてクリスチャン自身、主体的に考え、思い巡らすように勧めています。クリスチャン個々人、意志的に思考するようにとの命令、指示です。「信じます。--- 知っています。--- 思いなさい」に注目して以下の聖書箇所、その文脈を考えてみて下さい。 

ローマ6:1~3 「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」

6:8~9 「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。」

6:11 「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」 

その他の聖書箇所:

ローマ 8:5(救われた自分の内に内住する御霊の思いに注目し) 「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」

ローマ 14:5 「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」

Ⅱテモ 2:7(「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」との勧めについて) 「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。」

ヘブル 4:12(神のことばを自分の思考の中心に据えることで) 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」 

ヨブ記 37:14 (因果応報の視点からヨブを責め立てた三人の友人たちに代わって、神の主権を語るエリフの問い)「これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。」

詩篇 77:12 (なされた神のみわざに)「私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」 

 私たちはキリストにあって救われた、そこで終わらない。信じたことはどういうことかを考える、キリストにあった新しき生きることについて考える、その新しさとは具体的にどのような振る舞いなのかを考え、新たな一歩踏み出すことです。日々新たにされていくことをみことばに基づいて考えながら、神の再創造の御業を体現していきます。「--- 滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ4:2224)。

 基本原則シリーズⅠ~Ⅲは、すべてのクリスチャンが本来の「神学する」ことを目的として編集されています。 

〈包括的C-BTE の5つの主要方針〉「キリストと使徒たちの手法」に基づく

1. C-BTEは地区教会の生活と諸教会の活動に根差していなければならない。〈教会主体〉

2. C-BTEは忠実な人々に健全な教えをゆだねることを第一の目的とする。〈委任:次世代リーダー〉

3. C-BTEは教会を建て上げるという目的のために用いられるものである。〈奥義としての教会〉

4. C-BTEは立場の違いを超えてすべての男女に必要なものである。〈聖徒の建て上げ〉

5. C-BTEは信仰の「基本原則」の学びから始めるものとする。〈学習者主体〉

2020年5月17日日曜日

解説:基本理解5:「アンテオケの伝統」


基本理解5:「アンテオケの伝統」

「アンテオケの伝統」とは「キリストとその使徒たちの手法」に則った初代教会の主要な三つの伝統の中の一つで、21世紀に全世界規模でこの伝統に戻るためのモデルとなるものである。

 

解説:新約聖書時代、つまり原始キリスト教時代から「奥義としての教会」の拡がり、宣教の拡がりは自然発生的なものでした。同時に集められた真の共同体、教会は福音に基づく生き方を確立していったがゆえに、きわめて魅力的ないのちの共同体として地域へと広まっていったのです。その核となるのは複数世代にわたる家族の建て上げです。堅実に成長する子供たち、奴隷制度はあっても内実、主人と奴隷は兄弟姉妹として一つのテーブルに着く、制度を超えたものでした。その生き方は文化に対する世界的な影響力となり、平行して主の世界宣教大命令を実現していったのです。シリヤのアンテオケ教会は「キリストとその使徒たちの手法」を実現し、後の「アンテオケ学派」として知れる伝統を確立していきました。

 「教会」とは「人の集まり、集会」を意味し、初代教会は「信者の集まり」と解していました。つまり、教会理解の本質は「集まり方、その持ち方」にあるのです。三世紀までの初期教会から、信者が集う目的は何のためであったかを考えると教会の集まりとは、(1)主の晩餐記念のための食事を共にする集まりであり、そこでは(2)宣教と教え、(3)詩篇、賛美歌と霊的讃美があり、(4)町のいたるところ、その家々での集会でした。それらが(5)自然発生的拡がりの主要因となっているです。

集まりの特色に注目すると初代教会の自然発生的な発展にあります。毎週、週の初めの日に、復活のキリストを思い、信者たちが家庭や借家に集い、夕食を中心にキリストにある自分たちの「新しい人生を祝う」という「単純な集まり」に関係がありました。当然のことながらそこには知人友人、親族が招かれていました。

 これら小さく単純な集まりの中心は食事をすることであったのです。これが、初期教会が自然発生的に拡大する糧となったと思われます。まさに「家々でパンを裂き交わりをしていた」という使徒2:24の理解から始まるものです。そして、パウロによって「主の晩餐」に関わる教えが完全に開示され各教会に伝えられた「主の晩餐記念」は世界中でこの集まり(教会)にのみに与えられた代名詞となったのです。この単純な小さな、組織的ではない集まりが教会と呼ばれました。彼らの集まりは、突き詰めて言えば、「ケリュグマ」を実践する共同体でありました。それはすべての集まり(教会)がそうであったと思われます。そして、その集まりの四つの要素として①「使徒の教え」を守り、② 交わり、③ パンをさき、④ 祈りを共にしていたことです。このように主は信者の数を増し加え、四つの要素を持つ、小さな、単純な信者の集まりがローマ帝国社会、言い換えれば世界中に拡がっていったのです。奥義としての教会、神の家族共同体について啓示されたパウロの教会理解は「家の教会」です。つまり、クリスチャン家族、その家族(親族を含む)の集まり、そして「共に食する」 教会ネットワーク、神の家族の広がりでした。

 最初の三世紀、初代教会がスピードと広がりを持って拡大して行った理由は第一に挙げられる主要なものが個々人の自発的な行動でした。教会は回心し人たちが集まりを作ると、その集まりに初代教会から受けた教えの体系、キリストの福音と福音に基づく生き方、その教えを伝えてまとめていくことで、単純に広がっていったのです。まさに聖書の「基本原則」の理解、「聖徒の建て上げ」、そして「委任」です。

 そうした教会の集まりは個人の家でのクリスチャンの集会、ないし、集会のために改装された家での集会はコンスタンティヌス大帝の保護の下に置かれるようになる4世紀の初めまで普通のことでした。その後、バシリカ様式の会堂を建てるようになりました。すなわち、約300年間も、クリスチャンたちは家で集まりを持っていたことになります。小さな家の教会は、友人を招待したり、親族やシナゴーグ仲間、隣人、同僚を訪問して自分達の定期の集会や食事会に来るように誘うことで教会ネットワークが拡がって行ったと考えられます。

イエスの食事の継承:「主の晩餐記念」 共に食するという伝統は、過去には最後の晩餐に、今は共同体での食事に、将来は、ユダヤ人の宴、ないしは、おそらくすべてのクリスチャンが一堂に会する宴に見られるものであると考えられます。

初代教会の「主の晩餐記念」:

1. 主の晩餐を守るために集まった。「主の晩餐」という用語は集会全体を言う言葉として使われていた。

2. 食事の前にキリストの体が裂かれ、新しい契約が今やキリスト教会と共にあることの象徴としてのパンを裂いた。

3.  実際は貧しい人たちのための後援者の食事でもあったが、その食事の主な目的は集会に交わりと家庭(家族)的な雰囲気を持たせるためであった。

4.  食事はグループの一致と一つ心を育てるためにも役立った。お互いの輪、関係を体験的に育み、そのことを通してお互いと神の前に正しい考え、規範を持ち、また神のことばを問答し合った。

5.  一人一人集会に、みことばを教えたり、訓戒したり、みことばからの勧めをしたり、歌を歌ったり、讃美歌や霊の歌を歌ったりと、何か貢献するものを持ってくるものと考えられていた。

6. 集会には秩序があり選ばれたリーダーがその場をリードしたと考えられる。

7. リーダーは教会やネットワーク教会の懸案事項、また福音の拡大のために労している人たちとの語らいの場としても集まりを用いた。(使徒 20:17

8. 集会は地区教会以外の人たちにも開かれていた。 

家庭で、家族的な環境で、食事の交わりを通して、記念として、また真の、個人的な、相関的な双方向の交流をなし、一部儀礼的(パンを裂く、接待式)集まりでもありました。このように初代教会は毎週、週の最初の日の夕方に主の晩餐と呼ばれるものを中心に数時間、集まっていた。この習わしは初代教会の最初の3世紀まで続いたのです。 

集会/食事の内容

 1. 開始:祈りと歌(カテキズム的要素)

 2. パンを裂く

 3. 食事の開始、非公式な要素と公式な要素:「主の晩餐記念」と「愛餐会」

 4. 杯を交わす

 5. 終わり:歌と祈り(カテキズム的要素) 

1世紀と2世紀の初期のクリスチャンは主の晩餐を『愛餐』とも呼んだ。その当時、人々はパンと葡萄酒を宴の中で食していました。しかし、テルトリアヌ(197年バプテスマ)の時代あたりになるとパンと葡萄酒は食事から切り離されるようになった。2世紀の終わりごろには食事と、パンと葡萄酒は完全に切り離されました。さらに4世紀までには「愛餐」はクリスチャンの間で禁止された」のです。

 食事が禁止されると「パンを裂く」と言うことばも、「主の晩餐」ということばも使われなくなり、簡素化されてしまった儀式(パンと杯のみの儀式)は「聖餐式」(ユウカリスト)と一般に呼ばれるようになったのです。こうして「主の晩餐」はもはや共同体の行事ではなくなり、遠くから眺める司祭の儀式となったのです。そして4世紀から5世紀にかけて、聖餐式が祝われるテーブルに対しての畏敬と恐れの念が増幅されていきました。同時に「アンテオケ学派」は歴史の表舞台から消えていったのです。10世紀ごろになると、からだという言葉はクリスチャン用語となり、結果、主の晩餐はパンを裂く祝いをするために共に集まる(教会)という考え方から全く離れたものとなりました。これらすべての流れから「聖体変化」(化体説)という教義が生まれるわけです。この教義は12世紀から13世紀にかけて完成しました(1215年 第四次ラテラン会議においてサクラメントの「全質変化」)。

「キリストと使徒たちの手法」そして「アンテオケ」伝統は(1)「神の家族」としての教会を見える形にする(家族という社会構造:共同体)、(2)集まりに自然な形での交わりの要素を入れる、(3)集まりの中心にケリュグマの心を入れる:宣教(イエス・キリストの良きおとずれ:福音)、(4)慈善家の集まりの中で瞬時に新しい共同体を作り出す:魅力的な福音に基づく「良いわざ」:宣教、(5)単純かつ普遍的、(6)真の「教会ネットワーク」構築していくことです。

 初代教会の自然な拡大は、貸家またはだれかの家に夕食を中心に週の初めの日に信者たちがキリストにある新しい命を祝うために、単純な形で共に集まったことに関係がある、と思われます。 

アンテオケ学派:アンテオケの伝統

1)リソースセンター

2)教会に所属する学者(聖書・神学)

3)会議(発表)、 訓練、 同胞による研修

4)指導者ティーム (使徒的指導者たち)

5)文献、研究論文の発信

6)聖書の原型としてのモデル 

アンテオケの伝統は400年間続き、そしてローマ帝国を変革させていきました。しかし、次第に大事なものを失い始めていったのです。すなわち、

※使徒たちから知識人へ、

※牧会者から 個人的な成長へ、

※新約の実践から 公的な宗教活動へ、

※文字通りの解釈から 複雑な意味(学問的) の追求へ、 

それゆえに私たちは、16世紀宗教改革は聖書の意図に戻ると言う点で大きな影響をもたらしましたが、同時に初代教会、使徒後300年間の教会に戻って「アンテオケの伝統」を再考することが重要なのです。 

参考文献:

Going to Church in the First Century: An Eyewitness Account, provides an imaginative reconstruction well founded historically. R. J. Banks,

Beginning From Jerusalem: The Making of Christianity, Vol. 2, by James Dunn.

The Spontaneous Expansion of the Church by Roland Allen

“Acts and the House Church,” by Bradley Blue in The Book of Acts in Its First Century Setting—Volume 2

Families in the New Testament World : Households and House Church, Balch and Osick,

2020年5月14日木曜日

解説:基本理解4: 「教え:ケリグマとディダケー」


基本理解4:「教え:ケリグマとディダケー」

初期の教会がケリグマ(福音の物語)、ディダケー(教え)と呼び、すべての信者が聖書の「基本原則」から注意深く建て上げられていく必要のある教えの中心、すなわち、キリストの教えの本質であり、書簡(手紙)そして最終的には「福音書」という形でキリストの使徒たちを通して教会に伝えられたものである。

 

解説: 聖書の「基本原則」から建て上げられるべき大前提として、創造主の存在、いのちの創造主がご自分の「かたち」として人を創造された、という理解を明確にします。「神のかたち」としての人間の存在目的、また具体的にどのような「生き方」を望まれているのかを認識します。その上で約束されたメシヤ、救い主イエス・キリストの存在と完全な贖罪の業を成し終え、復活されたキリストに注目することです。

人がクリスチャンとして歩む決断にいたるきっかけは様々です。家族関係、地域社会における人間関係、あるいは学校や職場での人間関係につまずいたり、失望している中で聖書あるいはクリスチャンに出会い受容され、慰められ、励まされてクリスチャンとしての生き方に踏み出します。また人によっては、両親がクリスチャンで自然な形でクリスチャン生活を始めている人など様々です。ここで問題になるは、その当面の問題、課題から解放された、と言うだけでなんとなくクリスチャン生活を続けている方がいるということです。もちろん自覚的に問題意識を持ち、「信仰による神の救いのご計画の実現」に至るように積極的に学び、訓練を受けている方もいます。

 いずれにせよキリストのもたらした福音に基づいてクリスチャン人生を構築する、と言う自覚、そして意志的に実際の取り組みに一歩踏み出すことが大切になります。つまり、創造主の意図、キリストにある再創造の御業としてクリスチャン生活を始めることです。なぜなら創造主が完全に備えられた救い、神の御子イエス・キリストの身代わりの死、つまり贖いによって開かれた救いは信じる信仰に始まり、さらに信仰へと進ませるものだからです。ローマ人への手紙6章を読んでいただくと明確です。核となるみことばは「6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」「6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」つまり意識、意志の伴う考え方の改革です。「注意深く建て上げられていく必要のある教えの中心、すなわち、キリストの教えの本質」であるケリグマ:福音理解です。先きに記した「私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため」とあるように福音に基づく「新しい生き方」を実現していこう、という意志、決断です。しかも自覚的に、意志的に取り組まなければ実現しません。失敗、挫折は織り込み済みの全き恵みの神の先行的救いです。ゆえに感謝を持って「信仰に始まり信仰に進ませる」のです。

 もし最初の基本原則に取り組まなければコリント教会のクリスチャンたちが指摘されていた問題の根源、つまり「肉に属する」「キリストにある幼子」「ただの人」のような歩み、クリスチャン人生になってしまいます。「Ⅰコリント3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。--- 3:3 あなたがたは、まだ肉に属してい

るからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」これを克服し、神の再創造に御業を実現していく唯一の道は「聖書の基本原則」から取り組むことです。

2020年5月11日月曜日

解説:「C-BTEマニフェスト」基本理解3:「信仰の人に委ねる」

C-BTEマニフェスト」基本理解3:「信仰の人に委ねる」

牧師は「主の宣教大命令」という観点から、「健全な教え」に教会の監督責任を委ねていける指導者、恒久的で世代間の連鎖を生み出すような次世代指導者の育成を真剣に考える必要がある。

 

解説:「信仰の人に委ねる」これはC-BTEパラダイムの核心部分として見逃せない大切な基本理解です。一般的に次世代牧師の建て上げは教派別、また超教派で存在する神学校、つまり牧師を養成する専門教育機関が担っています。入学条件は「明確な召命を得ている者」です。通常は、牧師は教育・訓練において皆無とは言えませんが、直接には関わることはなく、教育の専門家に委ね卒業を待つだけです。この結末が欧米プロテスタントキリスト教界の世俗化、その伝統を踏襲する日本のプロテスタント教会の多くが高齢化、無牧教会の広がりの現実に直面しています。外的要因としては経済構造の変革、社会構造、特に家族のあり方の変化があります。しかし、もし教会が聖書の規範、聖書の基本原則に基づいてクリスチャン、クリスチャン家族の建て上げを実践していたなら、そして「信仰の人に委ねる」ことを実践していたら危機に直面する現実の社会において、むしろ影響力をもたらす共同体としての存在になっていたはずです。

「信仰の人に委ねる」は「基本理解2:建て上げ」その延長線上にあります。つまり、聖徒の建て上げ、その先に教会への賜物としての指導者の建て上げ、委任があることに注目したい。名称はユダヤの伝統と共有するもの、たとえば「長老」などがあるが大事なことは「信仰による神の救いのご計画の実現」に至る福音理解、福音に基づく健全な教えを共有し、それに基づく「良いわざ」に生きていることです。

一例を挙げると、

使徒の働き 14:23 また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。

使徒の働き 15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

エペソ4:11~13 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです

テトス 1:5 私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。

Ⅰテモテ 5:17 よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。

ヘブル 13:7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

ヘブル 13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。

ヘブル 13:24 すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。 

こうした指導者が具体的にどのような方々であったのかはⅠテモテ3章、テトス1章を読むとその人格、生きた方、そしてその役割が見えてきます。またその生き方はクリスチャン成熟の姿でもあります。牧師の役割は非常に重要です。そしてその牧師によって複数の指導者が生まれるなら、その指導者たちの中から牧師として役割を果たす器が建て上げられるのを想定することができます。さらに牧師の牧師として、「使徒的指導者」として主の宣教命令を実現していく大切な役割を果たしていくことになります。

先に言及したように、いわゆる主日礼拝の「説教」だけでは委任できる次世代の指導者、聖書の意図する指導者を建て上げることは望めません。牧師の使命として「信仰の人に委ねる」ということを真剣に考え、かつ明確な目標を持って取り組むことです。同時に、委任された次世代指導者自身はやはり次世代を建て上げ委任できる指導者になることによって「恒久的で世代間の連鎖を生み出すような次世代指導者の育成」を実現したことになります。

2020年5月1日金曜日

解説:「C-BTEマニフェスト」基本理解2:「建て上げ」


C-BTEマニフェスト」基本理解2: 「建て上げ」

福音(パウロの「初期の手紙」)に建て上げられ、教会に委ねられた働き(パウロの「中期の手紙」)を実証し、神の家族として成熟(パウロの「後期の手紙」)していく健全な教会を建て上げる過程である。

 

解説:「基本理解1」において「パウロのサイクル」つまり教会の主体的な宣教戦略を構想し、立案の必要性を考えました。その宣教戦略を実現するためには確かなクリスチャンを建て上げることが大前提になっています。それが基本理解2:「建て上げ」の意図です。

ほんとうに福音に出会いクリスチャンとして歩み出した人たちの内に生じるのは、この素晴らしい福音を身近な人たちに伝えたいという思いです。それは組織の強制感からではなく、神の愛がもたらす必然のように思われます。それが一時の思いに終わらないために牧会指導者は聖書の基本原則を教え、指導し、「建て上げ」なければなりません。つまり、福音に基づく「良いわざ」としての生き方、しかも未信者の間でも「評判の良い」生き方を確立することです。当然のことながら、それは個人に留まらず、結婚、夫婦の関係、子育て、隣人関係等を含みます(Ⅰテモテ3章)。その前提には神の創造された人間の本質でもある「額に汗して働く」、自分の必要は自分で満たす労働、職業を考えることの大切さを教え指導する必要があります。

 すでに家庭生活を営み、社会人として責任を果たしている方がクリスチャンとして歩み始めたとき、同様に聖書の基本原則に基づく生き方を再考し、聖書の倫理観、価値観に基づいて再構築し、建て上げられることが必須課題です。言い換えれば「神の再創造に御業」を個々のクリスチャン、クリスチャン家族において実現していくことです。言うまでもなく、これは個人主義とは無縁の「いのちの共同体」、神の家族共同体としての「教会」を建て上げていくことに直結する教育、訓練の「建て上げ」なのです。

 こうした聖書の意図に基づいて建て上げられたクリスチャン、その延長線上に主のいのちの共同体を治め、指導する器、執事や長老たちを建て上げることにもなります。さらには教会への神の賜物としての牧師、教師、宣教師等の主の器をも建て上げることにも通じる取り組みです。

 この際、再考したい教会の伝統に「主日礼拝」のあり方があります。「聖徒の建て上げ」は主日礼拝の説教、それも「受け身の説教」だけではクリスチャンが自ら考え、新たな一歩踏み出すクリスチャン人生を建て上げることには必ずしも十分とは言えないからです。牧師たちは「建て上げ」の目的、聖書の意図を再考し、人によっては「パラダイム転換」を決断する必要があるかも知れません。