2020年11月14日土曜日

解説:C-BTEのパラダイム:アンテオケ声明書:「C-BTEマニフェスト」:基本理解30

 

C-BTEのパラダイム:アンテオケ声明書:C-BTEマニフェスト」:基本理解30 

インターナショナルネットワークの中でC-BTEパラダイムの推進にリーダーシップを発揮しているBLDから発信されたアンテオケ声明書:C-BTEマニフェスト」 基本理解30 について解説を試み、なんとか30項目を終えました。
 2020年を迎え、C-BTEジャパン教会ネットワークの再構築に向けて踏み出したものの、コロナ禍の中で「C-BTEセミナー・ワークショップ」は皆無とまでいかないまでも、中止、延期が続いています。このような時こそC-BTEパラダイムは何を目標としているか、どのようにして「C-BTEパラダイム」を実現しようとしているのか、改めて声明書を共に確認しながら、C-BTEジャパン:教会ネットワークの再構築を確かなものにしたいと願っています。かつ聖書の意図であるC-BTEパラダイムを実証していきたいと思います。

思えば2005年に「C-BTEパラダイム」への転換を決意し、有志の同労者と共に取り組んできました。何よりも啓示の書、聖書に向き合いながら「C-BTEパラダイム」の確かさを共に検証しつつ、セミナー・ワークショップ等を通して教派を超えた取り組みがなされ、かつ実証してきました。そして2019年度から「C-BTEジャパン:教会ネットワーク」の再構築に新たな一歩を踏み出しました。

ネットワークの再構築にはいくつかの理由があります。ひとつは2011311日に発生した東北の太平洋岸に発生した大震災があります。「千年に一度の大震災」と言われる大津波被害の現実にC-BTEの取り組みは中断せざるを得ない事態となりました。しかし、震災被害を被った方々への支援活動の中でC-BTEパラダイムの確かさ、とりわけ「良いわざ」と宣教は一体のもの、地域に貢献する神の家族教会共同体の建て上げはこのような震災の中でなくてはならない存在であるべきことを現場で再確認できたことは大きな収穫です。同時にそれだけに着実に「聖書の基本原則」に基づく聖徒の建て上げを確かなものにしていなければならないこと、同時に教会ネットワークの大切さをも再認識させられまたした。しかし、優先すべきC-BTE教会ネットワークは理想的に機能していない現実にも直面しています。
 その現実を踏まえての2019年、再構築に踏み出したものの「新型コロナウイルス感染」のゆえの自粛、制限に直面し、諸教会の集まりに様々な制約、変化、また避けられない課題に直面しています。まさに「C-BTEパラダイム」の受け止め方の真価が問われています。「C-BTEマニフェスト」を読まれた皆さんからの率直なご意見、提言をいただければこの上ない感謝です。

2020年11月13日金曜日

解説:基本理解30:「出版事業の再構築:共同経営者であり、教会ネットワークと教会を主体とした宣教事業のための出版」

 

基本理解30: 「出版事業の再構築:共同経営者であり、教会ネットワークと教会を主体とした宣教事業のための出版」

 書物の出版(本以外の媒体事業も同様)は教会ネットワークと教会主体の伝道事業のために行い、福音主義出版界の「市場販売戦略の加熱」から脱却し、出版業も基本的には教会ネットワークの一つであると考える。 

 解説:最後のマニフェスト基本理解になります。出版物刊行は文字離れに伴いどの出版社も苦戦を強いられているのが現実です。そうした現実を踏まえて日本のような状況では協力関係を深めることも選択肢のひとつです。同時に主体的に再創造の御業としての個々人、クリスチャン人生の建て上げ、家族の建て上げに必要な文献を市場原理に左右されず確実に提供する必要があることも大切です。文献書籍も電子書籍の出版をも選択肢のひとつと考えても良いのではと思います。C-BTEジャパン:教会ネットワークの今後の大切な取り組みとして心に刻みたいものです。また翻訳だけでなく、日本人教職者たちによる執筆も実現していきたいものです。

2020年11月10日火曜日

解説:基本理解29:「基盤-企業モデルではなく、いのちの交わりとしての教会家族共同体」

基本理解29:「基盤-企業モデルではなく、いのちの交わりとしての教会家族共同体」

クリスチャン財団のあり方を教会家族財団へと再編する。財団の目的は教会主体の伝道計画を支えることであると同時に「パウロの宣教チーム」の一員となるように再構築する。また「企業モデル」ではなく霊の監督たちから成る均衡ある経営体制のあり方へと理解を深める。 

 解説:福音に基づく「良いわざ」と一体としての宣教、主の宣教大命令を実現していくことについて取り上げてきました。この項にある「クリスチャン財団」は「良いわざ」のひとつで、単にビジネス感覚、賜物で運営するのでなく、教会の指導者として建て上げられた器がリーダーシップを発揮することです。逆から言えば教会の指導者として建て上げられる器が同時に様々な「良いわざ」を推進する会、さらに財団においても健全なリーダーシップを発揮するように取り組むことです。神の家族共同体の中で建て上げられる指導者は教会家族のみんなの理想、模範的成熟さを身につけている器です。

 すでに教会によっては「給食活動」とか、貧困家庭に食品等を提供する「フードバンク」などに取り組んでいます。特にC-BTEパラダイムに取り組み始めた教会が福音に基づく「良いわざ」と一体としての主の宣教大命令を応えて行こうとする時に、このマニフェストの「基本理解29」に向き合い、考えなければならない課題です。


2020年11月8日日曜日

解説:基本理解28:「各教派の伝統を再考し、改めて聖書に戻って教会建て上げ活動を目的とした再構築を志向する」

 

基本理解28: 「各教派の伝統を再考し、改めて聖書に戻って教会建て上げ活動を目的とした再構築を志向する」

プロテスタント各派は今までの伝統を再度、聖書に戻って再考し、改め、今の宗派の根拠となっている「宗派の伝統」ではなく「キリストとその弟子たちの手法」という初代教会のDNAを持って教会を建て上げる活動へと目的を改める必要がある。そうすることで主流派(高教会派)の伝統を持つか、福音派の伝統を持つか、ペンテコスト派の伝統を持つかといった今の肥大化した分け方にあてはめようとせずに南半球で起こっている「新しいキリスト教世界」の誕生を促進する。

 

 解説:この基本理解はC-BTEパラダイムを考える時にとても大切な視点です。「パラダイム転換」ということを耳にするだけで抵抗感を覚える方がおられると思います。これまでその教会が所属する教派、教団の伝統を大切に、また誇りを持って教会建て上げに専念してきました。それだけに聖書の意図である、と言われてこれまでの習慣を変えてまで新たな一歩を踏み出すのは容易ではありません。具体的事例を挙げると献金の仕方の自由度はどうでしょう(Ⅱコリント89章)。それこそ容易な課題ではありません。主の晩餐記念、多くのプロテスタント教会では「聖餐式」として定着し、バプテスマを受けた信者のみが預かることができます。この主の晩餐記念の自由度はどうでしょうか。初代教会はクリスチャンになった兄弟姉妹が共に集まり、キリストによる救いを喜び合う愛餐会、つまり食事を共にする「主の晩餐記念愛餐会」でした。またその集まりの証しの場、宣教の実を結ぶ交わりでもあったのです。さらに教会の主要な集まりである主日礼拝、そのプログラムを含め、主の教える「集まり」に関する原則(参考聖書箇所:ヘブル101925)と付き合わせたときにどこまで変革の可能性があるでしょうか。

 福音に感動し、喜び、そのことのゆえに隣人から隣人へ、自然発生的に福音を語り、福音を喜び合う兄弟姉妹の神の家族が広がっていく、つまり、真のいのちの交わりとしての共同体が広がっていく、そのような教会の有り様が現実となればと思います。

 福音に感動し、喜び、そのことのゆえに隣人から隣人へ、自然発生的に福音を語り、福音を喜び合う兄弟姉妹の神の家族が広がっていく、つまり、真のいのちの交わりとしての共同体が広がっていく、そのような教会の有り様が現実となればと思います。

2020年11月7日土曜日

解説:基本理解27:「救済と開発・発展のための組織-教会活動への融合」

 

基本理解27: 「救済と開発・発展のための組織-教会活動への融合」

救済と開発、発展のための組織は教会活動に融合される必要がある。計画ごとに「ソダリティー(教派教団の縦型組織)・モダリティー(教派を超えた広域組織」」という考え方を持って成熟したパウロの宣教チームが教会ネットワークに資力と人材を配置し直す。

 

 解説:前項の「基本理解26」においてソダリティー、モダリティーについて、論理的優先順位の視点から奥義としての教会の主体性に焦点を当てました。その上でC-BTEパラダイムに基づく各個教会の主体的な建て上げがなされ、福音に基づく「良いわざ」と一体としての主の宣教大命令に応えていく教会の有り様について明示しました。そのことを前提に共有するC-BTEパラダイムに基づく教会間のネットワークが再構築され、パウロのような使徒的指導者が主導する宣教チームが機能するようにするということです。

そうであるならC-BTEジャパンのネットワークの中でソダリティー、モダリティーの基本的な考え方を展開することが可能になるのではないでしょうか。特に教会ネットワークの中でパウロのような使徒的指導者が主導する宣教チームがモダリティーの宣教チームとして主の宣教大命令を全国的に、また全世界的領域へと展開できるようになることが聖書の意図であることに注目したいと思います。C-BTEジャパン教会ネットワークの目指す確かな目標です。


2020年11月5日木曜日

解説:基本理解26:「パラチャーチ組織-真に教会に根ざした伝道事業への再構成」

基本理解26: 「パラチャーチ組織-真に教会に根ざした伝道事業への再構成」

パラチャーチ組織そのものを「ソダリティー・モダリティー」という考え方を持ち、パウロの宣教チームと教会ネットワークを正しく推奨する手段として真に教会主体の伝道事業に再構成する必要がある。

 

解説:宣教学者ラルフ・ウィンターは、主の宣教大命令に応え、その使命達成にはモダリティー(Modality教団のような縦型組織)のみならず、ソダリティー(Sodality教派を超えた団体、横に広がる運動)が重要だと提言しています。

 その前提としてのC-BTEパラダイムの核心部分は「奥義としての教会」であり、その教会に主の宣教大命令が託され、そのためにいのちの交わりとしての教会共同体の中で聖徒を建て上げ、その使命達成を実現していきます。かつ「奥義としての教会」、その実体はそれぞれの地域に存在する各個教会です。

教会はそれぞれ置かれた地域の中で寄与・貢献し得る神の家族共同体として建て上げられ、福音に基づく「良いわざ」を実践する共同体です。教会の成長度合いに応じて身近なところから初めて、宣教の広がりと共に地域に、さらに国全体へと展開できるとしたら、C-BTEパラダイムに基づく信仰の実体を示すことになるのです。地域貢献は宣教と一体のものとして取り組みます。そのように取り組む教会のネットワークを再構築すること、これこそ「パラダイム転換」が目指すものです。そのために教会を構成するクリスチャン、クリスチャン家族が聖書の基本原則に基づいて確実に建て上げられていることが大前提になります。

2020年10月22日木曜日

解説:基本理解25:「地球規模の隣人から隣人への宣教、開拓を推進する神学に熟達する」

 基本理解25: 「地球規模の隣人から隣人への宣教、開拓を推進する神学に熟達する」

一例として地球規模のペンテコスト主義は20世紀、21世紀の驚異であり、南半球への福音の広がりの主な原動力となっている。その中で教会建て上げが行われ、教会が神学に熟達し、実を育て、自分たちの文化全体への影響を確実なものとしていることを真剣に受け止めなければならない。

解説:真に福音理解を会得したクリスチャンには何物にも変えがたい喜びがわき溢れます。その喜びのゆえに自分の隣人や身近な家族、友人に福音を語りたい、という思いは新たないのちの衝動のようなものです。さらに聖書の「信仰による神の救いのご計画」、その実現に対する理解を確かなものとなることで福音を紹介したい、との思いはさらに強くなっていくはずです。

こうしたクリスチャンに対していのちの交わりとしての共同体である教会はそのクリスチャンの福音に基づく人生設計を再構築するために秩序だったクリスチャン教育が行われる必要があります。基本原則シリーズⅠ-Ⅲは最初の取り組みです。「信仰による神の救いのご計画の実現」に至る学習主体の学びは教会内外において、つまり信仰者の中で、また未信者の中でも寄与・貢献し得るクリスチャンとして建て上げられます。そのことによって、語る福音の確かさを実証するクリスチャンとなります。結果的に「隣人から隣人へ」と宣教の実を結ぶことになります。


解説:基本理解24:「宣教団のネットワークとしての再構築」

 

基本理解24:「宣教団のネットワークとしての再構築」

C-BTEパラダイムに基づく宣教団のあり方をネットワークとして再構築し、必要不可欠な宣教師をパウロのチームに再配置して教会を建て上げる働きをするアンテオケ教会に遣わし、働きを加速させる。

 

解説:「宣教団ネットワークとしての再構築」については大前提があります。C-BTEパラダイムを共有する教会の確かなネットワークが存在することです。そう言う意味で、この日本では今後の課題、目標であり共に考えるべき基本理解です。C-BTEパラダイムに取り組む教会がC-BTEパラダイムを実証しつつ、エペソタイプの教会、さらにアンテオケタイプの教会へと建て上げられていくことです。2020年度4月から取りみ始めた「C-BTEジャパン:教会ネットワーク」再構築の先に教会主体の宣教がこの日本から世界へと広がっていくことを期待し、着実に取り組みたいと願っています。


2020年10月9日金曜日

解説:基本理解23:「リソースセンターとしての神学校改革」

 

基本理解23: 「リソースセンターとしての神学校改革」

神学校はリソースセンターとして改革される必要がある。神学校は教会を主体とした神学教育を全国、世界規模で繰り広げていくという目的のためにその財産や人材を再配置し、実質的な神学教育ネットワークとなる。

 

解説:2002年の3月に「仙台バプテスト神学校」がC-BTEパラダイムのインターナショナルネットワークを推進するビルドの代表ジェフ・リード師をお招きし、C-BTEパラダイムの研修に着手しました。その「仙台バプテスト神学校」がこの日本で最初にC-BTEパラダイムへの転換(2005年)を決断したのです。主として本校の理事、教師たち、さらに有志の牧師たちが集まり取り組み始めました。

 本校はいわゆる教派団体所属、直属の神学校ではなく、独立した理事会の基に取り組む教育機関です。そう言う意味では教育理念の転換はさほど混乱はなかったと言えます。しかも専任教師たちは全員牧会に携わる牧師たちで、教会主体の神学教育・指導者育成は取り組みやすかった、実証しやすかったと言えます。しかし、現実は必ずしも理想的な実証には至っていない、と言うのが正直なところです。共に知恵を得る取り組みが必要です。そして教派を超えて軌道に乗ったかと思われたときに「3.11東日本大震災」に遭遇し、中断を余儀なくされ、現実は容易ならざる状況の中で試行錯誤の取り組みが続いています。さらに、一番身近な友好団体の教職たちの理解を得るためにさらに説得力のある取り組みが必要と思います。それで現在はリソースセンターである神学校教師たちがC-BTEパラダイムについて研修を継続しながら、身近な教会から起こされる献身者の教育・指導、育成を現実に即した仕方で取り組み支援することに専心しています。

 平行して諸教会でC-BTEパラダイムに取り組む「C-BTEジャパン教会のネットワーク」の再構築を目指して再始動し始めました。しかし、その矢先に「新型コロナウイルス感染」の広がりに直面し、足踏み状態が続いています。感染対策に知恵深く取り組みつつ、小規模でも大切な手法「対話・問答」を重ねながらC-BTEパラダイムを実証、教会主体神学教育を実現する教会が着実に起こされるよう願って取り組み始めています。

 リソースセンターとしての取り組みの一つに文献の紹介、翻訳出版、日本人指導者による執筆、出版があります。その先駆けとして「再創造のみわざ:福音に基づく〈奥義としての教会〉」建て上げられるべき「神のかたち」(仮称)という書物を「いのちのことば社」から出版予定しています。神様の救いのご計画を聖書全体から読み取り、C-BTEパラダイムの確かさを実証しようとの試みです。一つのたたき台として用いられればと願っています。


2020年9月9日水曜日

解説:基本理解22: 「町の繁栄を求め、寄与・貢献する」


基本理解22: 「町の繁栄を求め、寄与・貢献する」

教会が地域レベルで宣教を推進していく時の一番の関心事であり、確かな仕事をし、地域に奉仕する生き方を実践し、緊急の必要が生じた時に応えることで、教会が建てられている地域での貢献者共同体となることを求めていくことである。

 

 解説:C-BTEパラダイムに建て上げられている個々人のみならず、その家族、そして家族の家族である教会はその地域、町においてなくてはならない存在、町、地域、大胆に言えばその国においても寄与・貢献する、できる存在となる、なっていることです。このためにはキリストの福音を信じて救われた、そこに留まらず「神のかたち」としての尊厳性を前提に意識的に、自覚的に福音に基づく「良いわざ」に生きる者として建て上げられていることです。信じ救われたが「肉に属す者」「キリストにある幼子」のまま、「ただの人のように歩んでいる」クリスチャンでは「町の繁栄を求め、寄与・貢献する」ことはできません。「御霊に属する人」です。

 「町の繁栄を求め、寄与・貢献する」クリスチャン、家族、そして家族の家族である教会は御霊に属する人」たちであり、「御霊に属する人」の集まる神の家族です。この人たちは神の約束を信じた、そこに留まらず、信じて自覚的に一歩踏み出し、取り組み、聖徒として建て上げられ、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する---」(エペソ4:13)方向に共に歩み出しているクリスチャンたちです。同時に「御霊に属する人」はパウロように「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:1214)と告白するクリスチャンです。この延長線上に実を結ぶ「良いわざ」、福音に基づく「生き方」は教会内ではもちろんのこと、教会外においても、つまり未信者の中でも「評判の良い人」(Ⅰテモテ37)と評される生き方を実現していきます。そのために大切なことはキリストにある変革への自覚です。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:20)。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(ローマ6:11)。

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」(ヨハネの黙示録2:7)。

 諸教会、クリスチャンたちが繰り返してきた多くの問題は無条件で約束されている第三の「御霊に属する人」としての自覚、その自覚に基づく真摯な建て上げの取り組みに踏み込まず、むしろ第二の「肉に属する人、キリストにある幼子」のまま成長しているがゆえに生じているのです。健全な「聖徒の建て上げ」がなされない結果として「肉に属する人」そのクリスチャンこそが教会において様々な問題を引き起こす要因となっていた、なっている、と言っても過言ではありません。言うまでもなくこの問題は信徒だけの課題ではなく、仮に牧師であっても例外ではありません。結果としてヨーロッパキリスト教界のように実質のない教会、形骸化した教会になってしまうのも時間の問題です。こうした問題は特殊な問題ではありません。是非とも真剣にこの問題に向き合い、確かに「信仰による神の救いのご計画の実現」に至る「聖徒の建て上げ」に取り組みたいものです。聖書の基本原則から始まるイエス・キリストと使徒たちによる「健全な教え」に基づく建て上げ、その取り組みが不可欠です。牧会者には真摯に聖書に向き合って、とりわけ次世代のクリスチャンたちのために「御霊に属する」クリスチャンとしての方向性に、確実に、着実に建て上げられていくように健全なリーダーシップと牧会上の知恵を尽くしていただきたいと思います。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ2:10)。古きに死んで、新しさに生きる神の約束を信じ、約束されている栄光を望みつつ、確かな一歩を踏み出すこと、これこそ「奥義としての教会」、いのちの交わりとしての共同体の建て上げを実現する唯一の道です。これらを実現するのは主日の説教だけでは不可能です。それはキリスト教の歴史が証明しています。個別に神の前に自覚すると共に、各家族や、兄弟姉妹の交わりの中で共に考えながら、知恵を得ることで実現していきます。「神のかたち」として創造された人格的存在であるがゆえに神は全き恵みの救いを備えられただけでなく、他でもない神の約束に信頼して一歩踏み出す信仰が必要です。同時にみことばの真意をさとして下さる内住の御霊を意識し、取り組むことで「再創造の御業」、福音による変革が実現していくのです。

キリストの似姿への変革の道は、あなたの霊的自覚が鍵です。パウロの意志、「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:2627)。信仰の道は無条件の救い、恵みに始まりますが、クリスチャンならではの努力が必要です。仮に失敗の連続であっても失望しません。なぜなら「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。--- もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。---- 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します ---」(ローマ7:1525)。ここに生まれる主を仰ぎ見る信仰が大切です。その必然の結果としてクリスチャンの品性、真の謙遜が生まれます。そのためにこそ恵みによって救われたクリスチャン、そしてさらに成熟へと成長していくために、いのちの交わりとしての共同体、神の家族において先に救われ、建て上げられているクリスチャン指導者たち、長老たちとの対話・問答を通して、また牧師からの指導と訓戒によって「健全な教え」に建て上げられていく必要があるのです。

 最後に、クリスチャン生活における「聖徒の建て上げ」について、愛を前提しますが、「建て上げ」は実に厳しい取り組みでもあることを再確認したいと思います。福音理解の曲解は当然の結末を迎えますが、また「御霊に属する」クリスチャンへの自覚、意志的な取り組みに踏み出せなかったゆえに生じるゆがんだクリスチャンたちに対するパウロの姿勢に注目してください。

Ⅰテサロニケ5:14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。

Ⅱテサロニケ3:6 兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。

Ⅱテサロニケ3:1415 もし、この手紙に書いた私たちの指示(クリスチャン建て上げの健全な教え)に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい

Ⅱテサロニケ3:10 働きたくない者は食べるなと命じました。

テトス 3:10 分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。

 残念ながらこうした神の前でのパウロの率直さ、真なる厳しさを誤解しているクリスチャン、牧師、指導者が多く、真の愛をとは無縁の訓練、指導している方々がいます。知恵の書「箴言」に注目するとパウロの意図は明確です。

「訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ」(12:1)。

「あざける者はしかってくれる者を愛さない。知恵のある者にも近づかない」(15:12)。

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(27:5~6)。

 ただイエス・キリストを信じた、だけに留まらず、個々のクリスチャンが自覚的に「信仰による神の救いのご計画の実現」に至ることを願って一歩踏み出し、共に知恵を尽くし「聖徒の建て上げ」に取り組みたいものです。何よりも摂理の主ご自身がそれぞれの地に建てられた教会において、建て上げられたリーダーたちを用いて「奥義としての教会」にふさわしく建て上げられ、文字通り「町の繁栄を求め、寄与・貢献する」神の家族として存在しうるよう共に祈り、励みたちと思います。



2020年8月21日金曜日

解説:基本理解21: 「個人の成熟‐教育・ライフワーク」

 基本理解21: 「個人の成熟‐教育・ライフワーク」

地域に福音の影響力を広めていくための教会建て上げ戦略にとって主要なのは、一人一人がキリストにあって成熟し、明確な自分自身のライフワークを展開し、生涯をかけて知恵に基づく生き方を深めていけるよう助けていくことである。 

解説:C-BTE(教会主体の神学教育)とは、伝道・牧会、学問的な学び、人格の成長・発展におけるバランスの取れた学びです。と同時に牧師のような専門職に限らず、すべてのクリスチャンが取り組む「奥義としての教会」教育です。そのC-BTEの取り組む教育とは「ハビタス(ラテン語:習慣)」としての神学の本質を取り戻すことにあります。

人生を建て上げていくクリスチャン生涯教育は知恵に基づく生き方に特化しています。成人教育の目的は教会の在り方に関係し、教会の大人たち、またその家族の一人一人、教会家族が建て上げられます。建て上げの必然として地域共同体に貢献し得る福音に基づく「良いわざ」の一つ、世の中で生産的な生き方(額に汗する)を実現します。 

箴言4:1~7:知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。 

「習慣は第二の天性」とはこの日本で言われています。「ハビタス」とは人種、職業、性別等に関係なくすべての人間が一生涯に渡って身につけなければない魂の方向性と言われます。旧約聖書が書かれているヘブル語の知恵(hokmah:ホクマ)は「ハビタス」の実際的な定義を見事に説明しています。Hokumahは文字通りには「生きるうえでの技能」という意味で、精神的技能(聖書的に考える能力)と生活技能、つまり正しく人生の選択をする能力の双方の発展を意味するものです。

しかし、「日々聖書から神についてより深く学ぶこと、すなわち、いかに魂を正しく導くかという知恵を得るはずの神学が(聖書、聖書原語、重要な文献の学び等を通して)、またどのような状況にある人間にとっても必要なものであるにもかかわらず、牧師などの専門職の備えのための学問的な学びに置き換えられてしまっている」(Edward Farley)。

実際の手法:「ハビタスとは習慣とすることや実践することで得られる完成した、あるいはブレない状態、ないし状況を言う」。つまり、「神のかたち」である人間が理性と思考の追求を通して手に入れた性質、ないし気質を意味するものです。

神学的視点:神の知識と知恵を追求することで手に入れた「習慣」がその人の内性、気質、振る舞いとなることです。

聖書の中には明確に、信者一人一人が神のことばを真剣に学ぶ者であり、人生のすべての場面で聖書的に考えることを学ばなければならないという命令が与えられています。しかし、現代の西洋文明の中で私たちは魂の方向性の原則を、学問的知識を得る目的と捉え、専門的な働きをする知的学問の追究へと傾いていきました。 

ハビタスのプロセス、段階は現にそこに存在するいのちの交わりとしての共同体、地区教会における生活の中で、神学教育の聖書的原則をもう一度確立する手法を提供しています。

第一段階:聖書の「基本原則」の理解、聖書的に考える能力を発展させる段階、

第二段階:聖書の「基本原則」に基づき、生涯にわたる知恵の追求の土台をさらに発展させる。

第三段階:その土台に基づいて、生涯に渡る聖書理解を追い求める。 

すべてのクリスチャンにとってどのような働きをしているかに関係なく、自分のライフワークをさらに熟達したものとするために、訓練が必要です。成人教育の目的は教会の在り方に関係してきます。教会の大人たちが、またその家族の一人一人が、神の家族である教会が建て上げられ、世の中で生産的な生き方、創造された人間の本質である「額に汗する」働きをし、福音に基づく「良いわざ」(地域共同体に貢献)を実現します 。

 真の教育とは生涯のものであり、「知恵文学」は生涯に渡って知恵を求め続けるようにと勧めています。成人のための教育は、生涯知恵を求め続けること、かつ生涯教育(連続性)、理想は幼子からの連続性の中での教育です。その教育は単に教育に終わらない。考える力・思考力を向上させ、持って生まれた能力(興味関心)に気づき、普遍的な価値・規範を刻みつつ、発展させるものです。

 実際的な手法として「信仰による神の救いのご計画」全般の理解を前提に「人生開発ポートフォリオ」が提案されています。特にこの時代、学び続ける必要の時代です。その人にあった人生戦略を発展させていかなければならなりません。そのために提示されているのが「人生開発ポートフォリオ」の必要性です。仕事や生活の中で新しい知識を使いこなすことがどうしても必要になってきます。これが「知恵」と呼ばれるもの、文字通り「生きる術」です。

 なお、この日本ではクリスチャン生活の始まりがどの年代からか、人によって異なります。C-BTEパラダイムの大切な視点は子供の時代から老年期まで一貫した教育を想定しています。それゆえ今の自分から始め、そして「家族の建て上げ」に取り組み、ライフワークに対する各人の将来像を描き実践し、完成させます。

 

〈人生開発ポートフォリオシステム〉

 子供時代と青年期 - 良い職業倫理観を持ち、忠実な管理者となるよう育む。

 成人期初期 - この時期には聖書の核となる教えに十分確立された者となり、しっかりとした家庭を築き、健全なライフワークの基礎を据えることが必要です。経済的土台を据える。熱心に働き、経験を得、知識とライフワークに関する基本的な知識に焦点を合わせます。

成人期中期 - 知識とライフワークに習熟することに焦点を合わせ、仕事を成功させ、経済的基盤を深める。この時期には子どもを大人として扱うようにし、教会では熟練した働き人として仕え、ライフワークを具体的に始めていくことが必要です。

成人期後期 - 知恵とライフワークを会得することに焦点を合わせ、他の人を指導助言します。その延長線上で他の人に権威を委譲し、ライフワークの高みを目指し、ライフワークを引き継ぐ人を探します。この時期はこれまでの人生で培ったものを後世に残すことを考え、信仰共同体の人的資源となり、ライフワークを完結することが必要です 。

2020年8月16日日曜日

解説:基本理解20:「堅固に建て上げられ、貢献者として仕える家族」


基本理解20: 「堅固に建て上げられ、貢献者として仕える家族」

地域教会の地域への影響力の中心は、経済界、商業界、教育現場、自宅周辺地域、社会奉仕といった、その地域社会で貢献する、できる者として仕えるしっかりと建て上げられた家族である。

 

解説:「信仰による神の救いご計画の実現」に至る核心部分が家族の建て上げ、かつ次世代、三世代に続く家族の建て上げです。いのちの交わりとしての共同体、家族を建て上げる神の家族としての教会はC-BTEパラダイムの基本中の基本原則です。

翻って日本の現実は「少子高齢社会」、人口減少が進行しており「限界集落」といった衝撃的な問題提起、警鐘が打ち鳴らされています。それに伴う労働人口の減少は国家的な問題でもあります。それに連動するかのように教会も高齢化が進み、教会存続の危機も現実問題です。つまり、教会に集う人々も無意識のうちにこの世の価値観、時代のパラダイムの影響を受けていることの結果です。もちろん「高齢者」が問題なのではありません。テトスへの手紙2章を見ると次世代へと続くために成熟した高齢者の大切な役割について勧められています。冷静に聖書に向き合い神の意図を真剣に考えるなら、全く真逆の価値規範、考え方に気づかせられます。

教会が取り組むキリストの福音に基づく「良いわざ」、持続可能な「生き方」の確立に注目すべきです。その影響力が経済界、商業界に及ぼし、教育界にも、教会が置かれた地域社会においてもなくてならない、貢献する「いのちの共同体」となることです。自らの必要を自ら満たす「額に汗して」働く労働の尊さを学び、実践します。同時に個人ではどうすることもできない問題を抱えている方々、家庭の問題を抱えている方々を支えて、可能な限り健全さを取り戻すために神の家族は愛の手を差し出します。

そう言う意味で神の家族である教会は牧師だけでなく、建て上げられた家族、その家族の長たち、グループのリーダーたちが次世代の若者たちをしっかり教育、指導できるように建て上げられている必要があります。しかも、建て上げられるべき若者は自分がこの世に生を受けたときから、その人ならではのものがある、という前提で自らを建て上げ、最大限、喜んで取り組める仕事を見出し、かつ収益につながるように取り組むことです。


2020年8月9日日曜日

解説:基本理解19:「伝道所、教会、地域ネットワーク作り」

基本理解19: 「伝道所、教会、地域ネットワーク作り」

教会は、文化としての民族の特殊性を保ちつつも注視している地域社会にキリストにあって一つ心であることを示していくようパウロの宣教チームと地区ごとの牧師のネットワークのもとでケリグマとディダケーをよく理解して建て上げられていく必要がある。

 

解説:この日本では2000年から「C-BTEパラダイム」の何であるかを研修し始め、2005年に自分たちがパラダイム転換を決意し、本格的な取り組みを始めました。問題意識を持つ指導者たちがパラダイムを共有するようになり、まさに教派を超えての広がりです。C-BTEは改めて聖書の意図に注目し、奥義としての教会建て上げを共有しました。それぞれの教会の所属する教派があり、また伝統があります。C-BTEパラダイムは教派の伝統を全否定というわけではありません。あくまでもそれぞれの伝統を尊重しつつ啓示の書、聖書の権威を前提に、聖書そのものの意図に固執し取り組みます。互いに知恵を出し合いながら、直面する課題を克服しつつの取り組みだけにネットワークは大切です。そう言う意味で新たに教派超えた教会ネットワークを構成し、共に聖書に意図を確認し合いつつ、知恵を出し、励まし合いながら取り組む互いの関係の構築に取り組みました。

その後、2011年の「3.11東北大震災」巨大津波に直面し、それこそ教派を超えての取り組み、支援活動が拡がったと思います。事実そうした取り組みの証しがあります。同時に教派間の壁は想像以上に大きかったことも否定できない体験でした。

現在もC-BTEセミナー・ワークショップは継続され、新規参入教会も加えられています。そうした中で、ポストモダンの問題点のひとつ、信仰の「個人主義」が指摘されますが、教会間の個人主義とでも言いましょうか、いわゆる「各個教会主義」の壁も事実、超えがたい壁でもあることを認識しています。とは言え、「信仰による神の救いのご計画の実現」に至るケリュグマ、ディダケー:福音理解と福音に基づく生き方を真に理解し、取り組むことで真の意味のでの「神の家族」:教会ネットワーク構築の重要性を覚えさせられます。

現在、昨年度(2019年)から「C-BTEジャパン:教会ネットワーク再構築」を掲げて取り組み始めたのも、これまで上げた二つの「壁」を意識してのことでもあります。文字通りケリグマとディダケーを真に理解を共有し、地域に貢献し得る共同体として建て上げられて行くわけですので、「伝道所、教会、地域ネットワーク」の再構築が実現できるように知恵を尽くしたいと思います。この日本の文化の中で影響力のある教会ネットワークを再構築することこそ、「主の宣教大命令」に応えて、実を結ぶことになると期待しています。


2020年8月1日土曜日

解説:基本理解18:「西への戦略‐アンテオケ構想」

基本理解18: 「西への戦略‐アンテオケ構想」

西洋のキリスト教界が衰退し、ポストモダン的発想に立った脱キリスト教文化が台頭してきているという現実のただ中にあって、西洋諸国、その影響下にある国々はキリストと使徒の土台に根ざした新たな教会建て上げ構想、すなわち、アンテオケの伝統に根ざした宣教構想が必要である。

 

解説:「キリスト教」と言えばだれもがヨーロッパ西洋キリスト教界を思い浮かべると思います。この日本にある教会の多くは西洋キリスト教界から、またその伝統を踏襲するアメリカからの宣教団によって設立しています。その西洋キリスト教界はおおよそ一千年の歴史を持つローマカトリック教会において宗教改革が起こり、その後、宗教戦争も起こりましたが、カトリックとプロテスタント教会によって構成されています。さらにプロテスタント教会は近代、さらにポストモダンの中で大きく変容していきました。

40年間、インドで宣教活動し、1970年代に本国イギリスに帰国したニュービギン(Lesslie Newbigin)は教会の凋落ぶりを嘆き悲しみました。そして、西洋文化は教会にとって最も困難な土壌であり、皮肉にも「西洋キリスト教社会こそが、福音宣教が最も必要とされている場である」と激白しています。教会の真の問題は、教会の教勢、量ではなく、その質である。文化の中で、教会は何をし、何を語るか、どのようなものであり続けるか、それこそが問われるべきだ、と語っています。そして、ニュービギンの視点は宣教論再考の起爆剤となりました。啓蒙時代以降、教会は個人の価値、信仰、見解の問題としてプライベートな領域の中に追いやられていった。そして、教会は「誤ったプライベートゾーン」と「力を失ったキリスト教世界」との間に浮遊していると言う。

 世界宣教へのプロジェクトと共にニュービギンが抱いたヴィジョン、「西洋キリスト教社会こそが、福音宣教が最も必要とされている場である」ことに焦点を当てることです。

D.J ボッシュは「宣教のパラダイム転換」の中で「地区教会」の再発見、「地区教会の中心性が教会史の大部分の中で忘れられてきた」と指摘しています。

また、ローランド・アレンも現代の欧米宣教運動は根本的に新約聖書に見られる手法、すなわち「キリストとその弟子たちの手法」とは違い、色々な点で異質なものとなっている、と指摘しています。パウロの手法を間違って、部分的に真似ようという試みに失敗した時、人は「使徒の手法」は間違っており、今の時代の状況には不適切なものだ、と結論づけました。しかし実際は「使徒の手法」というものを理解しておらず、実践もしていなかっただけのことだ、と厳しい(The Spontaneous Expansion of the Church)。

 プロテスタント諸教会は16世紀「宗教改革」によって生まれました。その宗教改革者共通の問題意識は初代教会に戻って現状の教会の有り様を改革することでした。しかし、そこにはすでに限界がありました。その後の教会は近代、そしてポストモダンの中で「脱キリスト教文化が台頭してきているという現実」に直面しました。とりわけ「ポストモダン」の影響においては、キリスト教界に当たり前のように定着しているのが「個人主義」です。その反動として、まさに人間的発想のいわゆる「弟子訓練プログラム」です。

つまり、欧米のキリスト教伝統に基づく私たちの同胞の諸教会こそが「C-BTEパラダイム」を必要としている、ということです。健全な家族の建て上げ、その家族を基盤としたキリストの体なる教会、神の家族を建て上げていくことが、どの時代において、どの文化の中でも地域に貢献する教会、持続可能な教会の建て上げを実現することになるのです。


2020年7月29日水曜日

解説:基本理解17:世界規模での宣教戦略

基本理解17: 世界規模での宣教戦略

ローマ全域にユダヤ部族が離散し、ローマが世界都市となって行く状況の中で起こる文明の衝突を通して世界の秩序を作り変えるという、時世をわきまえた「パウロ的」福音宣教を実践、実現することによって福音を21世紀の世界に広めようという戦略計画である。

 

解説:C-BTEパラダイムに基づく「世界規模での宣教戦略」はすでにBILDインターナショナル(https://bild.org/philosophy/growth-of-the-early-church)がその構想を描き実践しています。私たち「C-BTEジャパン」もそのメンバーとして共に研修し、指導、助言をいただいています。

 優先順位として、この日本でC-BTEパラダイムに基づく教会建て上げに取り組む諸教会がC-BTEパラダイムを実証し「世界規模での宣教戦略」をも共有する教会のネットワークを再構築することです。

パウロの宣教戦略の核となっているものを理解しておく必要があります。エルサレムからローマへと拡がる宣教の基点となったのはユダヤ人の集まる会堂(シナゴーグ)が大切な役割を果たしています。パウロは同国人であるユダヤ人に対して、共に待望していたメシヤはあの十字架上で殺された「イエスこそキリストであった」ことを伝えたかったのです。その熱い思いを証言しています。ローマ9:23「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」しかし、行く先々で同国人から拒絶され、迫害されました。しかし、同国人の拒絶が異邦人へと向きを変えることになっていきます。

そうした中で、異邦人は異邦人でもすでに聖書の教えに共感し、ユダヤ人会堂に出入りし、割礼を受け、ユダヤ教に改宗することはせず、創造主なる神を知った人たち、しかも神の教えを学び、聖書の規範、価値観、倫理観に共鳴し、聖書に基づいて生きている人たちでがいました。「神を敬う」人たち、「備えられて器」の存在です(使徒13:43、16:14、17:4、17:17、18:7)。その人たちがパウロの宣教に応答したのでした。つまり、『ローマ全域にユダヤ部族が離散し、ローマが世界都市となって行く状況の中で起こる文明の衝突を通して世界の秩序を作り変えるという、時世をわきまえた「パウロ的」福音宣教』の一端を証言するものとして興味深い事例です。このようにしてパウロの宣教戦略は思いがけない仕方でエルサレムからローマへと宣教の拡がりを実現していきました。

何よりも日本の諸教会もパウロに開示された「奥義としての教会」、家族の家族としての神の家族:教会共同体を建て上げようと取り組む指導者が起こされることを祈り、この一事に励みたいものです。

2020年7月22日水曜日

解説:基本理解16: 「救済と開発・発展」


基本理解16: 「救済と開発・発展」

危機的な状況にある地域の教会を支えている世界中の教会ネットワークがまず世界規模で必要な救済と開発・発展へ寄与しなければならない。そうすることで教会は様々なクリスチャンNGOにこの働きを単に委託せずに、これら危機的な状況にある地域の救済と開発・発展のために、もっと幅広い社会生活基盤整備ができ、一つの共同体となれるものである。

 

 解説:この基本構想が実現可能となる前提として、この後に取り上げる「貢献者として仕える家族」、「町の繁栄を求め、寄与・貢献する」教会、その教会のネットワークが構築されてこそ、と言えるテーマです。

 キリスト教系のNGO団体がいくつかあります。教会はそうした団体のニュースレターを読み心からの支援献金を贈っておられると思います。それだけに個々の教会はこのテーマをあえて取り上げないし、取り上げようという意識もありません。C-BTEパラダイムを考えたときに「教会とは何か」その使命は、と問い続けていくと「主の宣教大命令」は確かに宣教そのものの実践であるのですが、宣教は福音に基づく「良いわざ」と切り離せないものであることがわかります。こうした理解を共有する教会がネットワークを構築し、危機的な状況にある地域の救済、発展に寄与・貢献することです。

 「アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」シリヤのアンテオケ教会が、大飢饉のゆえに助けを必要としているエルサレム教会に救援物資を送ることを決め、バルナバ、サウロ(後のパウロ)の手によって長老たちに贈った(使徒112730)とあります。ローマ人への手紙152527節でパウロは「聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。」と訴えています。Ⅰコリント1613節に献金の勧めがありますが、やはり「私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。」と記しています。さらにⅡコリント8115節にマケドニアの諸教会が極度の貧しさの中にあっても「聖徒とたちをささえる交わりの恵みにあずかりたい」と「惜しみなく施す富となった」と証言し、そしてコリントの教会に対して「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。」と記しています。さらにガラテヤ人への手紙では210節「ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。」と証言しています。

 パウロの「献金の勧め」に注意深く読んでみると、今日私たちの教会で行っている献金とは次元の異なる取り組みに気づかせられます。その多くはエルサレムの助けを必要とする兄弟姉妹を支えるためでありました。

今日、経済的構造のゆえに称されている「発展途上国」にある諸教会の必要に応えられるならと思います。そのために教会に対する神のヴィジョンに基づく構想を持ち、実践する教会ネットワークの構築が大切です。とりわけ日本の大多数の教会は自分たちの共同体を維持するだけで精一杯、という現実を直視し、C-BTEパラダイムの理念を共有した教会がネットワークを構築し「救済と開発・発展」に取り組む教会になりたいものです。 

2020年7月16日木曜日

解説:基本理解15:「文化の中での神学」


基本理解15: 「文化の中での神学」

教会の指導者や信者たちが聖書神学という規範に支えられ、生き生きとした共同体を作りながら再創造の御業として文化芸術を生み出し、真の意味で色々な必要に応える者として生活をする中で社会の価値観に影響を与える教会活動である。

 

解説:優先すべき使徒たちに伝えられたキリストの“教え”ディダケーのひとつ「信者と家族の確立」があげられます。聖書の核心的要素は以下の通りです。

〈行為の矯正〉—“脱ぐ/着る”

〈徳〉—“御霊の実”

〈家族関係〉—“家族

〈真の共同体〉—“愛”

〈教会外の隣人への振る舞い〉—“隣人愛”

〈国家への服従〉—“上に立つ権威に従う”

〈責任ある生活〉—“落ち着いた、 気をつけ” 

私たち教会のクリスチャンたちは健全な基礎が築かれているだろうか、世界的な視野で見ると、何百万の諸教会が 設立されていますが、しかし 多くは 失われています。最近のアジアの事例でも400もの教会が建てられたが、50教会に減少してしまった国がある聞いています。しかもその諸教会もしくじっている、と言うのです。何故に、これらの諸教会は存続できなかったのかについて以下の課題が指摘されています。

①タイプのような指導者、地区教会の牧師を適切に訓練することの失敗

②その地、固有の文化理解の不足:(文化の中で神学する)

③不完全な教会の定義

④「使徒たちの教え」に安定を欠いた諸教会

⑤指導者育成の学科を持つ神学校と聖書大学の不足等々が上げられている。

さらに「神学する」技能、特に「文化の中での実践神学」(民俗学的技能を含む:①方針の計画、②教会の諸問題の解決、③その上での宣教活動の計画)、文化の中での包括的な信仰体系の構築を欠いていることです。

 そのような観点から「生き生きとした共同体を作りながら再創造の御業として文化芸術を生み出し、真の意味で色々な必要に応える者として生活をする中で社会の価値観に影響を与える教会活動」を確立しているかどうか、という問いかけに注目して下さい。

 

文化の中で「神学する」具体的事例:「一期一会」の精神(茶道用語)

 クリスチャンの成熟のしるしとして「もてなし」(Ⅰテモ 3:2、Ⅰテモ 5:10、ヘブル 13:2)があります。神の愛に応答したクリスチャンにとって「もてなし」はそう大きな課題ではないかもしれません。日本の文化では「一期一会」という「もてなし」に関する高貴な精神的理念、作法があります。真に神の愛に動かされるクリスチャンこそ、内実の伴う「一期一会」の精神を実現できるのではと思います。また、信頼と尊敬の隣人関係が宣教に結びついていくものと考えられます。「一期一会」の語源は日本の茶道にありあす。「神学する」事例として参考までその主要観念を紹介します。 

「茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くせ」といった、茶会の心得からのものです。安土桃山時代の茶人で茶の湯の大成者である利休(千利休152291)の弟子「宗ニ」の『山上宗ニ記』に「一期に一度の会」とあり、ここから「一期一会」の語は広く使われるようになったとのことです。「一期」と「一会」をそれぞれたどると、「一期」は仏教用語で人が生まれてから死ぬまでの間を意味し、「一会」は主に法要などでひとつの集まりや会合を意味しており、ともに仏教と関係の深い言葉でもあります。

 「万延元年3月3日も雪だった」(船橋聖一「花の生涯」)、水戸浪士らによって暗殺された「桜田門外の事件」(1860年万延元年)で知られる幕末の大老井伊直弼は茶人としても知られています。彼の著書「茶の湯一会集」が「一期一会」の出所です。

「そもそも茶湯の交会(親睦を深める)は一期一会といいて、たとえば幾度同じ主客交会すとも今日の会にふたたび帰らざることを思えば実に我一世一度の会なり。さるにより主人は万事に心を配り、いささかも粗末なきよう深切(ゆきとどいて、丁寧なこと)実意(真心)を尽くし、客もこの会にまた会いがたきことをわきまえ、亭主(客をもてなす主人)の趣向何一つも愚かならぬを感心し、実意をもって、交わるべきなり。これを一期一会と云う。かならず、かならず主客ともなおざりには一服をも、もようすまじきはずのこと、すなわち一会集の極意なり。」

 「主客とも余情残心を催し、退室の挨拶終われば客も路地をいずるに高声に話さず、静かにあとを見かえりいでゆけば、亭主はなおさらのこと客の見えざるまでも見送るなり。

さて中潜り、猿戸(庭の入口の簡単な木戸)、その外障子などは早々締め立てなどいたすは不興千万一日の饗応(もてなし)も無になることなれば決して客の帰路見えずとも取り片づけいそぐべからず。いかにも心静かに茶席に立ち戻り、この時、にじり上がりより入り、炉前に独座して、今しばらくもお話しあるべきにもはやいずかたまで参られべきや今日、一期一会すぎて、再び帰らざることを観念し、あるいは独服(茶を点てて飲む)などいたすことなど、これ一会極意の習いなり。この時、寂寞(せきばく;物音が何もしない)としてうち語ろうものとては釜(茶釜)一口飲みにしてほかにものなし。まことに自得(自分で悟る)せざればいたりがたき境涯(人それぞれの立場)なり。」

※参考:奥田正造(成蹊学園、成蹊女学校二代目校長)の「一期一会」に関する精神講話

  日本の伝統的文化のひとつでもある「一期一会」に込められた「もてなし」の文化がどのような特質を持つものであるかを理解した上で、聖書の教える「もてなし」について「神学する」ことで真の意味での影響を与える新たな文化を築いていく一例として紹介しました。