2017年9月29日金曜日

ソクラテス問答(4)

先回、「ソクラテス問答」についての進め方について一つの資料を紹介しました。さらに確かな問答を展開するためにもう一つの資料を紹介します。実際に問答を導く体験をされた後に読んでいただき、検証し、そして再挑戦していただければと思います。「問答」は文字通り「学習者主体」で進められますので、理屈以上に実際の取り組みを積み重ねながら習得していくものです。

 教育の目的とは何か
    学び方を学ぶことである。
    あらゆる知識と知識を統合する。
    リーダーは、参加者が自分の今までの経験や思考過程を通して、自分なりの解答を見つけるよう促す必要がある。
    問答は真理や真意を知ろうと、声に出して思いめぐらす手法である。

1、基本事項(基本原則)を挙げる。(基本概念を深める)
2、物事の表面下にあるものを探求する。
3、思考の問題領域を追及する。
4、各自が自分の思考構造を理解できるようにする。
5、参加者がより明確で、正確かつ主題から離れないような発言に気をつけることができるようにする。
6、参加者一人一人が自分なりの論理で納得できるようにする。
7、参加者が思考の要素である主張、証拠、結論、争点となっている問題、前提、言外の意味、結果として当然言えること、概念、解釈、観点に気付けるようにする。

リーダーの役割: 考えるクリスチャンを建て上げる
    明確な認識:批評的な物の考え方を育てる。
そのために聞いて鵜呑(うの)みにせず、なぜ、そう考えられるのか、客観的に示す。
    そのために、クラスの環境が、真摯な態度、心を開いた語り方、理解しようとする聞き方、自律・自主の精神、論理性、自己判断ができやすい場とする。
    また、それがさらに一人一人の発言を促すことにつながることが感じられるようにする。

そうして初めて、参加者は問題を特定し、解決する自己能力を信じられるようになる。またそこから、自分で考えることが大事である、との思いを抱くようになり、また、自分で考えることは悪いことでも、間違ったことではないと思えるようになる。

権限を与えられている人(リーダー)は「正しい」答えを与える人ではなく、正しい答えを見つけ出す手助けをしてくれる人であり、自分たちの内に理解する力が与えられているということを発見できるようにさせることである。すなわち、「ソクラテス問答」におけるリーダーは説教する人ではなく、問いを投げかける人である。(それだけにリーダー自身、よく学び、理解を深め、学びの方向性を明確に持っていることが前提になる)

 リーダーの備え: リーダーは以下のような質問をするには、どうすれば良いかを学び備える。
        意図を探る
        理由や証拠を挙げる
        問答が混乱に陥らない(論点を明確に)
        言わんとするところを理解しようとして聞く気持ちにさせる
        実のある比較対象を導く
        矛盾や不一致を明確にする
        言外の意味や当然の帰結を引き出すような質問をする

 考えるクリスチャンを建て上げるために:
        前もって分かりやすくお膳立てされた解答を与えることはしない。
        独善的な単なる意見を信じるようなことはさせず、大局的視点で考える。
        無理に質問者が「そうだ」と思えないような結論を押し付けたり、そのように問答を誘導したりしない。

1、大きな問題や課題をいくつかの部分に分け、扱いやすくする。
2、学習者自身にとって意味のある状況を作り出すことで学ぶ意義を見出せるようにする。
3、言い換えたり、質問し直したりすることで、学習者が自分の考えを明確にできるようにする。
4、考えさせる質問を投げかける。
5、問答が脇道にそれないようにする。
6、学習者同士が互いに説明し合うような働き掛けをする。
7、アドバイスをしたり、情報の用い方を示したりして、学習者自身が知らなければならない事は何かに気付けるようにする。
8、決して発言を中断させたり、無視したり、不当に却下したりせず、互いが互いの見解にきちんと向き合うよう対応する。

「ソクラテス問答」の三つの型
1、自然発生的・計画的でない問答
2、予備的問答
3、焦点を絞った問答

 1、自然発生的・計画的でない問答
  質問による探求→ 予期しない展開になる、疑問を質問に変える
 全く関係のないことを言ったとき、
 「新しい問題が提起されましたね」
 「なぜ、そう考えるか」
  「今の論点との関係は」
 ものによっては「後で取り上げましょう」

 質問による探求→ 予期しない展開になる、曖昧、あるいは一般的な言葉で応答した場合、
何人かの参加者に同じ質問に答えてもらう。
それぞれの理解の仕方を比べて見たり、違った角度からの質問をしたり、その比較を参加者自身にさせる。

 2、予備的問答
 リーダーが、参加者が何を知っているのか、どう考えているのかを知りたい時、色々な事を考えてもらいたい時に用いる。
 また後で問答をする時、役立つような質問、ある分野をどう考えているのか、問題領域や気付いていない偏見を明確にし、その人の興味や矛盾点を知るために用いる。

 3、焦点を絞った問答
ソクラテス問答の主要な型: 論点や概念を実際に深める。
参加者に自らの見解や全体像を明確にし、類別、分析、評価し、知っている事と、知らない事を判別し、関連のある事実と知識を統合してもらうことで、問答がより深く広がり、また焦点が絞られていく。
 幅広く秩序だった統合された問答をすることで、参加者が色々な考え方や洞察を発見し、それを発展させ、他の人たちと分かち合う体験をしてもらう。
前もって計画し、この問題をどう捉えているだろうか、そう考える根拠は何だろうか、どこから問題となる考え方が起こるのか、この問題に関して他にどのような事を考えるだろうか、どのような結論に達する可能性があるだろうか等々を考えておく。
リーダーはいつ、どの型の質問をすれば「知性の炎を燃え上がらせる問答」となるかに精通し、感性を磨いておくよう訓練している必要がある。

ソクラテス問答の分類法〉:
人間の考え方には普遍的特質がある
   1、明確にするための質問
2、思い込み、前提がないかを探る質問
3、論拠・証拠・要因等を引き出す質問
4、見方・視点に関する質問
5、引き出せる推測、推論・当然の帰結を探る質問
6、論点(質問・疑問・問題)についての質問

1、明確にするための質問
 ・それはどのような意味ですか、 
・あなたの言っていることと、今話し合っていることとの関連は、つまり、それを別の言葉で言い換えるとどうなりますか、
・ここで一番問題となっていることは何だと思いますか、
 ・例えばどのようなことですか
  ・あなたが一番問題にしたいことは…ですか、
  ・それは例えばということですか
  ・もう少し説明してもらえますか
  ・なぜそういうのですか
  ・つまり、あなたの言いたいことは「… 」ですか

2、思い込み、前提がないかを探る質問
・あなたはどう思いますか、
・あなたならどう考えますか、
・あなたは… …と考えているように思えますが、
・あなたの論拠は全て… …  から来ているように思えますが、
・あなたは… … 考えているようですね、なぜそう取るのが当然だと思うのですか、

3、論拠・証拠・要因等を引き出す質問
・例えばどのようなものが挙げられますか。
・あなたがなぜそう言えるのか教えてください。
・それは信じるに足るだけの十分な証拠と言えますか。
・あなたがその結論に達した理由は何ですか。
・それが正しいかどうかどうすれば分かりますか。

4、見方・視点に関する質問
・あなたは --- の視点からこの問題を捉えようとしていますが、なぜ --- ではなくて--- なのですか。
・他の考え方を持つ人たちはどう答えるでしょう。なぜ違った答えをするのでしょうか。どこからその違いが出てくるのでしょうか。
・この問題を違った角度から見ている人、違った角度からも見られると考える人はいますか。

5、引き出せる推測、推論・当然の帰結を探る質問
・つまりあなたの言いたいことは --- ですか、
--- と言われますが、つまり --- ということですか、
・もしそうなったとしたら、そのことの故に他にもどのような事が起こるはずだと思いますか。なぜですか、
・それはどのような影響を与えると思いますか。
・それは必ず起こることですか、それとも起こる可能性があることですか、

6、論点(質問・疑問・問題)についての質問
・どうしたらこの問題を解くことができると思いますか、
・誰かこの問題を解決できる人はいませんか、
・論点は明確ですか。皆さん論点が何であるか理解できますか、
・この問題を考えるとき推測されることは何ですか、
・この問題はなぜ重要なのですか、

ソクラテス問答: 思考の四つの方向論理
        「人には、考えを引き出してくる方向が4つある」
        ①どう考えるかは、その人の人生であり、②どのような根拠で、③どのような証拠をあげて、④どのように推論するかによって決まる。
        どう考えるかで、私たちの進む方向が決まる。
        どう考えるかは、この4方向を色々使いながらなされる。
        与えられた主題に対し、なぜそのように考えるのかを内省する機会を与える。
        自分の考えを立証しているか、あるいは立証できるかよく考える機会を与える。
        そう考えることでどのような推論をし、結論を引き出しているかを熟考する機会を与える。
        自分と考えの違う人が筋の通った反論を展開した場合、あるいは考慮すべき別の可能性を提起した場合どうするかを考えさせる。
        さらに「論点の明確化」と「論点を質問する」

不思議に思う! 自分で不思議に思うことを不思議に思う。
        参加者全員の思考が開花するようにリーダー自身が色々不思議に思う必要がある。
 ※色々質問を試す
 ※参加者の生活に密着した質問
 ※あきらめない。
  参加者が答えられないとき、
   ①質問の言い換え、
   ②質問の小分けにし、
   ③単純な質問をする。

参加者の習熟度に添う必要がある(学習者主体)
    参加者に合わせた質問を準備する。
    すぐに参加者とソクラテス問答を十分にできるなどと考える必要もない。
この方法を使えば、小学生であっても、特に高等教育を受けていない人とであっても、誰とでも理解を深める問答をすることができる。

Socratic Questioning and RoleRichard W.Paul,Ph.D.
Director the Center for Critical Thinking and Moral Critique
Sonoma State University
Chair, National of excellence in Critical Thinking
Published by Foundation for Critical Thinking, Santa Rosa,CA


2017年9月21日木曜日

「ソクラテス問答」(3)

「ソクラテス問答」実際について、一つの参考資料を紹介します。BILDのインターナショナルサミットに参加した際にいただいた資料の一つです。実際に問答を導く際の参考にしてみてください。初めて取り組む方にとって適切な手引き書です。



ソクラテス問答を導くにあたって
リチャード・クレマー
(by Professor Richard Kremer, Dartmouth)

 「質問されれば1日はそれを思いめぐらそう。しかし質問することを教えれば人は死ぬまで問い続ける。」―― 中国の格言

Ⅰ.基本前提:
ソクラテス問答は問答であって講義ではない。リーダーの役割は参加者一人一人の知識と経験を引き出し、それを整理し直して新しい何かを作り上げることである。参加者の発言にいちいち講釈を加えたり、さらには、長々と自分の考えを述べたりするようなことがあってはならない。質問に徹すること。

Ⅱ.基本ルール:
ソクラテス問答をするに当たっては、お互いがお互いの発言を尊重すること。決して、誰かが答えようとしている時に横やりを入れたり、話を制するような態度をしたり、隣の人と耳打ちしたりしてはならない。リーダーから指名されても断って構わないし、その理由を言う必要もない。リーダーも他の参加者もそのことで非難するようなことがあってはならない。このルールはソクラテス問答をする前に必ず確認し、守ること。

Ⅲ.リーダーはソクラテス問答をする前に、該当するテキスト箇所を十分に読み深め、参加者への質問を予め作っておく。

Ⅳ.質問の種類
A.答えが集約される質問(正しいか間違っているかといった事実認否的質問)
1.情報チェック:何時、どこで、誰が、どうした、
2.読んだことの反復:聖書は何と言っているか。

B.答えが分かれる質問(正しい答えがいくつかある質問)
1.推論させる質問:聖書の情報から当然導き出されることを考えさせる(推論)
2.解釈させる質問:聖書の記述から考えられることを検証する(推論の妥当性)。
3.移行させる質問:聖書の考えを新しい時代、地域、状況に置き換える。
4.内省させる質問:ソクラテス問答を通して、なぜそのように教えられ、考えさせられるようになったかを検証する。

V.質問の順序、ないし、段階を踏む質問
A.質問の手法
1.まず簡単な質問で始め、順次複雑な質問へと進んで全体を終えるようにする(答えが集約する質問から分散する質問へ)
 2.一つの問答の中でも何度か簡単な質問から複雑な質問へ、を繰り返す。

B.質問を投げかける相手を選ぶ手法
1.無作為:無作為に参加者を指名する。手を挙げて答えてもらう。
2.ソクラテス問答:同じ人に質問をいくつか重ねていくことで、その人の発言を明確にしたり、発言したりする前には気付いていなかった何かに気付くようにさせる。

いくつか正解がある質問に対して明らかに「間違った」解答がなされた場合どうする
 A.その解答者が「正解の一つ」に行き着くように再度違った角度からの質問をする。

B.解答者にその根拠を聞く:なぜそう考えるのか。何か例を挙げることができるか。

C.別な解答者に同じ質問をする。

Ⅶ.問答のスピード感
A.解答者にいちいちお礼を言ったり答えを繰り返したりしないで速やかに次の質問に移る。とにかく「対話・問答」、議論を進め、考えることに集中する。

B.答えを急がせない。ただし中々答えられないでいるような場合は質問の仕方を変えるとか、他の人に当てて欲しいか聞く。

C.決してリーダーが答えを出すようなことをしない。一人がダメでも他の人、また別な人と質問をしていく。

Ⅷ.最後にリーダーは、自分が取り扱おうとしていた大事な点を自分でまとめるか、参加者にまとめてもらうようにする。

どうしたらソクラテス問答が成功したと言えるか
これが成功した問答と言えるものはない。しかし、ソクラテス問答をしている時に、参加者同士で質問し合うような状況が生まれたり、お互いに考えを引き出しあったりするようになれば、参加者が何かしら刺激を受けていると言える。その時は静かに聞き役に回り、やり取りを中断させないようにする。

X.  Further reading:
Browne, M. Neil and Keeley, Stuart M.  Asking the right questions: A guide to critical thinking. 2d ed. Englewood Cliffs: Prentice Hall, 1986.
Wolf, Denis P."The art of questioning."  Academic connections (Winter 19487): 1-8.

2017年9月20日水曜日

「ソクラテス問答」(2)

「ソクラテス問答」はどこで: 実際にどこで「対話・問答」が行われるかについて紹介したいと思います。BILDから出版されている「基本原則シリーズ」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲがあります。その構成はシリーズⅠが核心的聖書の基本原則である「神の家族である教会」について、シリーズⅡはもう一つの核心的的聖書の基本原則、神の家族のもとで建て上げられる「各家族の建て上げ」について、それぞれ四冊のテキストがあります。各テキスト毎に核心的基本原則に関わる四つの主題(これも「基本原則」と言える)のもとに五つの論点を取り上げ、最後の六課ですべてを統合する取り組みがなされるように構成されています。シリーズⅢは五冊のテキストで、Ⅰ、Ⅱと基本的に同じ構成で、聖書解釈の原則も含め、聖書神学の手法について、同時に教会建て上げについて「信仰による神の救いのご計画の実現」に関わる原則を学べるように構成されています。

そして各シリーズの各課毎に以下の四つ分野に分けて取り組むよう構成されています。
1、みことばを学ぶ
2、文献に当たる
3、論点を考える
4、基本原則を適用する

この四項目のどこでいわゆる「ソクラテス問答」が行われるかと言えば、皆さんお分かりのように「3、論点を考える」においてです。「対話・問答」を実のあるものにするために「みことばを学ぶ」と「文献に当たる」においてこの課の論点について理解を確かなものにしておく必要があります。

理想的取り組み: ですから、学習者個々人が事前に取り組んでいることを前提にするなら、共に集まった時に「基本原則」を学ぶ取り組みは「論点に当たる」に焦点を当て、その課の論点を「対話・問答」によって深められることが理想です。みことば理解の確かさ、推論の妥当性、また文献の骨子を理解し、その上、みことば理解にどれだけ貢献しているかを確認しながら、基本原則を、現在の自分たちが置かれている状況の中で、摂理の内に置かれた文化の中でどのように実践できるかを考え、さらに意志的に取り組む新たな一歩を見出すために互いに問答します。

ここでも注意したいことは「論点:○○」とあり、「話し合いの前に論点を考えてみましょう」とあり、いくつか問いが記されています。しかし、その質問が共に行う問答のための問いではありません。それは問答の前に学習者個々人が事前に考えを整理しておくためであり、「ソクラテス問答」の備えです。その上で、問答に臨みます。しかし、慣れていないこともあり、そう容易ではないようです。

順を追って考えてみましょう。

「みことばを学ぶ」から「中心的な教えをまとめる」: ここでは論点を考える聖書箇所があり、熟読して聖書の著者の意図を文脈を含めて読み取る作業です。しかし、大半のクリスチャンたちの聖書に向き合う習慣、つまり自分の印象、自分の関心事から聖書を読んでしまう傾向があり、著者の文脈を「無視して」とまで言えないまでも、名文句、格言的な聖句を探す読み方、自分の主観を優先する読み方になりがちです。もちろん信仰者として生きる自分にとって、どのような影響があるかを考えながら聖書を読むことは大切ですが。ここに上げられている質問は主観的な思い込みから離れて客観的に著者の意図に近づくため、次の取り組み「中心的な教えをまとめる」ためにあります。つまり「質問を読んでよく考えてみましょう」にあるいくつかの問いが「対話・問答」のための問いではないということです。

基本原則シリーズの学びは「学習者主体」の学びでもありますので、自ら中心的教えを理解する一助としていくつかの問いが上げられています。主観を脇に著者の意図に集中し、また多角的視野で考えながら著者の意図を明らかにしていきます。この質問が完璧な問いだ、というわけでありませんが、自分の関心事、前提、主観的な思い込みから離れて客観的に著者の意図に近づくため、と考えてみてください。あくまでもこの課の聖書箇所の中心的な教えを見出すことが目的です。

翻訳テキストのゆえに文化の違いから考えにくい問いであったり、翻訳の的確な日本語表現でないことは避けられません。しかし、意味不明の表現は別として、聖書箇所を読み、文脈を考え、中心的な教えを見出す点で、むしろ客観的に聖書に向き合い、その意図を明らかにしていけるのではと思います。

批評的に文献を読む: グループによっては「みことばを学ぶ」の取り組みを考えるための各問いについて、互いに発表し合って、中心的な教えを確認することもなく「では、文献を読んでみましょう」と進められるを見、聞きすることがあります。これでは本来の学習目的を逸することになります。また、学習者のうちに納得感がないまま進められることになりますので、結果的に学びを中座してしまうことになりかねません。優先されるべきは聖書の意図を捉えることです。そうすることで文献に対して真の意味で批評的に向き合い、読み、理解を確かなもにすることを可能にします。是非、本来の取り組みに挑戦していただきたいと思います。

学習者主体を実現する次善の策: 普段から聖書記者の意図を探る取り組みを行っている場合はテキストを渡されてもある程度のことは取り組むことができるでしょう。しかし、大半のクリスチャンたちはそうした学びの経験はありません。それで予習をしてくることを前提に共に集まったときに「みことばを学ぶ」の各問いについて発題し、共に考え、根拠となるみことば、文脈からの推論の妥当性等を互いに確認し合いながら聖書の読み方、著者の意図を見つけ出す術を互いに補完し合えるようにします。教えてしまうのではなく「学習者主体」を大切に学習者自身が気づくことができるように導きます。次善の策として、ある程度、学習の仕方に慣れるまでそのように取り組んでみてください。

書き記された神のことば、聖書ですので、読み手中心にならない限り、著者の意図はそれぞれ異なる、と言うことにはなりません。共に共有できるところまで互いに理解を深められるようにします。そして、必ずそのテキストでの中心的な教えにたどり着けるように取り組みます。その上で「文献に当たる」に進むようにします。

「委任」: C-BTEパラダイムのワークショップやセミナーに参加していることを前提に、学び方に慣れるまでは、取り組みの指導は牧師が担当されるのが望ましいと思います。もちろん牧師であっても聖書神学の術を事前に承知しておくことが前提です。前提の理解としてはガイド「基本原則を教える」の内容を共有できていることです。そしてグループでの取り組みを導いていく中で、必ずみことば理解にセンスのある兄弟姉妹に出会うはずです。その時、その方に「委任」し、グループの学びを導いていただきます。牧師はしばらく傍らで支援し、確かな進め方を確認できたときに文字通り「委任」します。

2017年9月19日火曜日

「ソクラテス問答」

なぜ、「ソクラテス問答」: C-BTEの学習手法として「ソクラテス問答」が紹介されています。しかし、仮にその学習手法に合点したとしても、「なぜ、聖書に基づく取り組みにソクラテスを引き合いに出すのか」と疑問を呈する方も少なくありません。結論から言えば「問答」の手法についての表現にこだわる必要はありません。その意図、内容、「対話・問答」の手法を正確に捉えることが肝心です。

時代、時代には特有の思潮: 歴史を振り返ると、その時代、時代には特有の思潮があり、その影響を受けて価値観や物の見方、日常生活の様式まで変革をもたらしています。1549年、日本へのキリスト教伝来と共に信仰だけに限らず自然科学、哲学など人文科学の分野まで影響をもらしました。そして長い鎖国の時代がありましたが、江戸幕藩体制から明治維新への移行はヨーロッパ近代思想を受けての大きな変革は顕著な例です。

影響を受けるということではキリスト教も例外ではありません。キリスト教界で何の疑念もなく受け入れられている学問の一つ「組織神学」はまさに時代の思潮の変革の中で生まれた学問です。古くはギリシャ哲学、そして近世の合理主義の延長線上に体系化されました。「組織神学」それ自体は決して否定されるものではありません。ただ明確なのは、その体系が聖書の意図ではなく、人間側の学問的な意図から生み出されたものだということです。そして今回、取り上げている「ソクラテス問答」はその真逆の例です。

「ソクラテス問答」: C-BTEが目指すのはまず、聖書の意図、「信仰による神の救いのご計画」に基づいてクリスチャン人生の方向性を確立することです。ここに知恵の伝統「ハビタスの手法」に戻る必要があり、そして「ソクラテス問答」その手法を理解する必要があるわけです。

ソクラテスは紀元前400年頃の哲学者でありますが、その頃すでに同様の「対話・問答」が聖書の世界でもなされていたとうことです。ユダヤ教のラビたち、またユダヤ人の親子の教育的対話においても「それでは、あなたはどう考える?」と、子供自身の発想を促す問答がなされているとのことです。言うなら「問答」は普遍的な手法であったと言えます。

考えさせる問い: 先回、「ハビタスの手法」、知恵の伝統に立ち返ることについて紹介しました。知恵は一方的に教えられ、指示されて生まれるものではありません。日常体験に即して「考える」ことから生まれます。そして、基本的な教え、原理原則に基づいて考える過程において、適切な「問い」が発せられることにより、考えはより広がり、また深まります。人は本能のおもむくままに生きる存在ではなく、「神のかたち」として創造された人間、自ら持つ規範に基づいて取捨選択し、決断し、意志する人格的存在であることの特性、そのものを示しています。

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」(ロマ8:5)。

「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい」(Ⅱコリント10:7)。

「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます」(Ⅱテモテ2:7)。

「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」(ルカ12:27)。

聖書においては単に規則を与え、指示するだけでなく、原理原則に基づいて「考え」、そして日常においてどう一歩踏み出すかを促すみことばに出会います。ギリシャ語の世界でも「考える」と訳される言葉は多種多様です。そして日本語でも「考える」という概念は実に多様かつ豊富で、広がりがあります。鑑(かんが)みる・考え込む・判ずる・思考・思案・思索・思量・思惟(しい)・考察・考量・思慮・尊慮・深慮・熟慮・熟思・熟考・黙考・沈思・静思・瞑想(めいそう)・論断・決断・意図・志向等々、豊富です。

「ソクラテス問答」、「対話・問答」において大切なのはリーダーがどのような問いを発すかが鍵となります。聖書を読み、その意図を考える上で、また引き出されたみことばの原理原則に基づき、日常において具体的にどう一歩を踏み出せるかを決断するまでに適切な問いが投げかけられる必要があります。隠された解答を見つけ出すための問いでは決してありません。(続く)

2017年9月15日金曜日

聖書の「基本原則」

C-BTEの五つの基本概念 
   1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方(承前)
 3.「建て上げ」という考え方(承前)
 4.「ハビタス」としての神学(承前)
 5.聖書の「基本原則」

聖書の「基本原則」: 聖書の「基本原則」についてはラベル「基本原則」の項でも確認いただければと思います。今回は最後の二つの基本概念、「ハビタス」と「基本原則」はC-BTEパラダイムの考え方の中で「なぜ、神学教育か」を中心に考えさせられる基本概念である、という視点から記したいと思います。

原理原則はあらゆる分野で事を発展させるなくてはならい概念です。創造主がご自分の「かたち」として創造された人間のキリストにある再創造の御業においても例外ではないようです。神の救いの御業はある意味、超自然的な業でありますが、同時に私たちの思考の領域で考え方を変える取り組みによって実現していくことが明確に記されています。

クリスチャン生活の核心的なこと: キリストによる福音理解について、特に「新生」についてローマ人への手紙6、12章を読みますと、福音を信じた者は福音に基づいて意志的に考え、これまでの考え方を変え、その新たな考え方に基づいて見える仕方で生き方を変えることが必要不可欠である、ということです。まさに本来の「神学する」という行為そのものに他なりません。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。--- このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(6:3-4,11)。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(12:1-2)。

つまり、聖書の基本原則に基づいて私たちの思考の領域を変え、実際の生き方を変える取り組みはクリスチャン生活の核心的なこと、聖書の世界観を確立するとても重要な取り組みです。そうであれば聖書の基本原則が何であるのかを明確に知る必要があります。見逃すことのできない大枠はキリストの福音と福音に基づく生き方に関する教えです。その上でビルドのテキストでは「神の家族である教会」、そして教会を構成する「各家族」の建て上げの中で福音に基づく生き方の基本原則を明らかにしております。

この聖書の基本原則に基づいてこそ、聖書的に考える考え方を確立し、神の再創造の御業が何であるかを考え、具体的に実現していくことになります。さらにより具体的に考え、福音、神の再創造の御業を踏まえて聖書を読み、考え、さらに基本原則が何であるのかを明らかにしていくことになります。

包括的C-BTE の五つの主要方針:「キリストと使徒たちの手法」に基づく
1.C-BTEは神の家族地区教会の生活と諸教会の活動に根差していなければならない。 
2.C-BTEはどうしたら忠実な人々に健全な教義を委ねていけるかを第一義的に考えるためのものであると理解されなければならない。
3.C-BTEは教会を建て上げていく過程の中で用いられなければならない。
4.C-BTEは年齢、職業、性別に関係なくすべてのクリスチャンに必要なものと考えられなければならない。 
5.C-BTEは信仰の「基本原則」の学びから始められなければならない。

結論:C-BTEとは
1.C-BTEとは指導者を訓練するための、新しいが古い、「キリストと使徒たちの手法」に基づくパラダイムである。 
2.C-BTEとは、次世代指導者(リーダー)を生み出していくために新約聖書のモデルに戻ることである。
3.C-BTEとは、伝道・牧会、学問的な学び、人格の成長・発展における調和のある学びである。
4.C-BTE とは「ハビタス」(知恵の伝統)としての神学の本質を取り戻すことである。

2017年9月14日木曜日

「ハビタス」としての神学(2)

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方(承前)
 3.「建て上げ」という考え方(承前)
 4.「ハビタス」としての神学(承前)
 5.聖書の「基本原則」

最後の二つの概念、「ハビタス」と「基本原則」はC-BTEパラダイムの考え方の中で「なぜ、神学教育か」を中心に考えさせられる基本概念です。

基本概念4.「ハビタス」としての神学という考え方(2)

「ハビタス」の基本概念を考えたとき、「神学をする」、すなわち聖書が何を言っているかを読み取ることです。その上で、「ハビタス」を定義すれば、ハビタスとは年齢や職業に関係なくすべての男女に必要な生涯の知恵を追求する魂の方向性、と言えます。

ハビタスの手法
段階1: 聖書の基本原則を理解し、その基本原則を念頭に置き、聖書的に考える能力を発展させる。
神学的識別力を発達させ、聖書の「基本原則」を理解し、聖書的に考える力を育成する。
基本原則シリーズⅠ:「神の家族」、シリーズⅡ:「家族」、シリーズⅢ:「神の救いのご計画」を解釈する原則

段階2: 生涯にわたる知恵の追求「ハビタス」の土台を発展させる。
信仰に成熟する為の一つが知恵に裏打ちされた人生の方向性に発展していくことである。
参照: 箴言2:1~9, 詩篇90:10~17

段階3:  生涯に渡る聖書理解を追い求める。
私たちが求める神学は奥義としての「教会」主体でなければならない。神の家族・信仰の共同体全体が「神の救いのご計画」のうちに成長し、日々の生活に、その真理を適用していく必要がある。基本原則を念頭に福音書を読み、イエス・キリストの教えの意図を理解し、その上で旧約聖書を読み、さらに理解を深める。

ライフワークを確立する生涯学習: ハビタスの手法を理解し、クリスチャンとしてのライフワークを確立する生涯学習を実現していきたいものです。なぜか、今日の多くの教会では本格的で、秩序立てられた教育体系が欠如しているように思います。ユダヤ人のような生涯教育体系、バルミツバー、タルムードのような問答等々、このような教育体系を保持した最後のグループはピューリタンと呼ばれる人たちと言われています。

「聖徒の建て上げ」は説教のみにあらず: 今日のプロテスタント教会の多くは日曜日礼拝を中心とした集まりになっています。しかも、プログラムの大半を占めるのが牧師の説教です。教会によっては一人の牧師が何十年にも渡って説教し続けています。説教自体を否定するものではありませんが、このままでの説教が個々人のクリスチャン建て上げにどれだけ貢献しているかです。もちろん多くの教会は週日に聖書の学び会や祈り会を持っています。しかし、出席者は教会全体のどれほどの割合でしょうか。後に改めて紹介しますが「学習者主体」の聖書の学びを再考すべきなのではないでしょうか。「学習者主体」の聖書の学びが着実に取り組まれることによって、牧師の説教が聖徒たち揺るぎない信仰建て上げになお一層、貢献できるものと期待します。

16世紀宗教改革によって、中世カトリシズムのパラダイムを大転換したプロテスタント諸教会が生まれました。何百年もの間、一般のクリスチャンは聖書の学びはなく、サクラメント(典礼)中心の信仰生活が続いていました。前後しますが、チューリッヒで改革を進めたツヴィングリはそこ集まる会衆に聖書の講解説教を行い始め、会衆は大きな感動を持ってみことばの解き明かしに耳を傾けたと記されています。一方、先人を切った宗教改革者マルチン・ルターは各地の教会を巡回する中で会衆はもちろんこと、牧師たちも聖書の基本的な教えを理解する必要を覚えて「小教理問答」、「大教理問答」を作成し始めたと言われています。言うなら聖書の基本原則、基本教理を対話・問答によって理解し、その基本を心におさめ、念頭に置くことで講解説教はより理解できるようになると考えられます。そして「小教理問答」は各家庭の父親が子供たちと行うように勧められました。「教理問答」はプロテスタント諸教派にも同様に広まりました。つまり「聖徒の建て上げ」は説教のみにあらずを理解すべきです。しかし、いつしか説教中心のみの教会が多くなってしまったのがプロテスタントの現実です。

では、具体的にすべての人のための神学的教育はどこから始まるのでしょうか。聖書の「基本原則」からです。先に記した神学的意図から執筆されたのがBILDインターナショナルから出版された基本原則シリーズⅠ~Ⅲです。翻訳の制約を超えて私たちの教会建て上げを再考させてくれるリソースであると思います。的確にC-BTEのパラダイムを理解し、また、なぜC-BTEなのか、問題意識を共有して、その上でこの国の文化の中で神学し、この国のクリスチャンたちのためにリソースを出版できるのが理想です。私たちもそのように実現するよう進められています。その前に大事なのは問題意識、共有できる神学的パラダムの理解です。

「ハビタスの手法」に基づくC-BTE 基本原則シリーズ 14冊
Ⅰ. 信仰の基礎:「神の家族」
Ⅱ. 実りあるライフワーク:「家族」
Ⅲ. 聖書の正しい学び方:「聖書神学」の原則

2017年9月13日水曜日

「ハビタス」としての神学

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方(承前)
 3.「建て上げ」という考え方(承前)
 4.「ハビタス」としての神学
 5.聖書の「基本原則」

最後の二つの概念、「ハビタス」と「基本原則」はC-BTEパラダイムの考え方の中で「なぜ、神学教育か」を中心に考えさせられる基本概念です。

基本概念4.「ハビタス」としての神学という考え方: 「ハビタス」はラテン語 habitus(ハビトゥス )の音訳で「習慣」です。その語意は人の性行に深くしみこんで、生まれながらの性質のようになる、とあります。つまり、「ハビタス(習慣)」の意図することは反復によって習得し、少ない心的努力で繰り返せる安定した行動を生み出すことです。そういう意味では日本語の中にある「習い性となる(ならいせいとなる)」とか、「習慣は第二の天性なり」などは「ハビタス」の意味するところを的確に表現しています。習慣もたび重なると、人の性行に深くしみこみ、ついには生まれながらの性質のようになってしまうということです。「習慣」が人の性行に影響することにおいて、いかに大であるかを示しています。すなわち、「ハビタスとは習慣とすることや実践することで得られる完成、あるいはぶれない状態、情況」です。つまり、人間が理性と思考の追求を通して手に入れた性質ないし気質を意味します。

神学的視点から言えば、神の知識と知恵を追求することで手に入れた習慣がその人の内性、気質、振る舞い、つまり聖書の言う「心構え」(ピリピ2:1~5)となるということです。聖書の中には明確に、信者一人一人が神のことばを真剣に学ぶ者であり、人生のすべての場面で聖書的に考えることを学ばなければならない、という命令が与えられています。福音の核心的な教え、キリストにある「新生」、すなわち神の再創造の御業を正しく理解し、その約束を考え、思い巡らし、そして現実の日常生活において具体化することです。

問題提起: しかし、ハビタスとしての神学について『基本原則を教える』ガイドに以下のように問題提起が記されています。「日々聖書から神についてより深く学ぶこと、すなわち、いかに魂を正しく導くかという知恵を得るはずの神学(聖書、聖書原語、重要な文献の学び等を通して)、またどのような状況にある人にとっても必要な学び(神学)であるにもかかわらず、牧師などの専門職の備えのための学問的な学びに置き換えられてしまっている」(参照:Developed by Edward Farley in Theologia: The Unity and Fragmentation of Theological Education)。

全生涯に渡る発展的な学習: 現代の西洋文明の中で、日本も例外ではなく、私たちは魂の方向性の原則を、学問的知識を得る目的と捉え、専門的な働きをする知的学問の追究に傾斜してしまったというわけです。こうした核心的な問題点を自覚し、聖書に戻って再考するハビタスのプロセスは各個教会共同体での生活、いのちの交わりの中でなされる神学教育の聖書的原則をもう一度確立する方法、手法として提供していることに注目していただきたいのです。しかし、今日のクリスチャン教育が個々人の全生涯に渡る発展的な学習であるべきにもかかわらず、各世代、分断された統一のない教育になっているのが現状ではないでしょうか。「基本原則シリーズⅠ,Ⅱ,Ⅲ」はこうした問題意識の上に編集されています。

知恵: とりわけ旧約聖書が書かれたヘブル語のホクマー「知恵」はハビタスの実際的な定義を見事に説明しています。(知恵)は文字通りには「生きるうえでの技能」という意味で、精神的技能(聖書的に考える能力)と生活技能(正しく人生の選択をする能力)の両者の開発、発展を意味しています。そういう意味で「ハビタス」の手法は普遍的な真理と言えるのではないでしょうか。

私たちの文化の中でも「習慣は第二の天性」という表現があることに触れましたが、ハビタスとは人種、職業、性別等に関係なくすべての人間が一生涯に渡って身につけなければない「魂の方向性」と言い得ると思います。

箴言4章1~9節
子どもらよ。父の訓戒に聞き従い、悟りを得るように心がけよ。
私は良い教訓をあなたがたに授けるからだ。私のおしえを捨ててはならない。
私が、私の父には、子であり、私の母にとっては、おとなしいひとり子であったとき、父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。
知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。

聖書の学びが知的学問の習得に終わらせず、同時に神の民としての生き方に関わる知恵を得ることを目的とすることです。(続く)

2017年9月12日火曜日

「建て上げ」という考え方(補足)

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方(承前)
 3.「建て上げ」という考え方(承前)

先回、「建て上げ」という考え方について、最後に「パウロは福音宣教のために開かれた門を目の前にしても、既存の地区教会の建て上げに無関心のまま、新たな地への福音拡大を優先するようなことはなかった」ということにふれ終えました。このことについてもう少し補足しておきたいと思います。

「建て上げ」について「パウロ書簡」の時間的推移を見ますと、教会が十分な建て上げとなる一つの過程をたどることができます。神が後々の教会のために、「建て上げ」の原則を示すために摂理のうちに霊感された書簡として聖書を構成しているように思わせられます。

初期のパウロ書簡:ガラテヤ、テサロニケⅠ,Ⅱ、ローマ人への手紙では福音に基づく教会建て上げが中心に記されています。

つまり、若い教会は福音と福音が意味するところに従ってしっかりと「建て上げ」られて欲しいとの思いから書かれています。

テサロニケ人への手紙Ⅰ,Ⅱ:キリストの再臨に関する教理的なゆがみが結果的に無責任な生き方を助長してしまいました。

コリント人への手紙Ⅰ,Ⅱ:教会に広がる不一致、教師に対する人間的発想、道徳行為の乱れ、結婚に関する誤解、離婚や再婚について、また、律法主義、賜物と奉仕等々、また教会の中の人々を教え、勧め、正そうとする人々を拒み、むしろ、統一を乱す人々に耳を貸してしまう。

ローマ人への手紙:福音に基づく自由な生き方の喪失(14章)、良心に基づいた生き方の喪失、結果的に他の信仰者自身の良心に基づく生き方を裁いてしまう。

中期のパウロ書簡:エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙では教会に対する神のヴィジョンに基づく教会建て上げの使命を読み取ることができます。若い教会がキリストとキリストのご人格とキリストのご計画において一つ心になることを願って記された書簡です。

エペソ人への手紙:教会内に解き放たれた力に対する認識の欠如、つまり、悪魔の策略にしっかりと立ち向かう力の欠如が指摘されています。さらに、教会を建て上げるためにそれぞれが果たすべき役割を成し遂げるための成熟度の欠如を克服すべき必要がありました。

ピリピ人への手紙:全教会がひとつ心になって福音の進展のために取り組もうとする思いの欠如がありました。ある人たちはあるグループとは共に戦えないという人たちの存在があったようです。

コロサイ人への手紙:キリストのものではない違った人物、違った指導原理を持つ哲学の信奉があるべき信仰をゆがめてしまう現実が指摘されています。さらに、この世のもの(地上のもの)に心を奪われ、神の家族、教会にも家庭にももたらされる不和の実態が指摘されています。

ピレモンへの手紙:キリストのご計画に参加するために、一つ心になって取り組めない実生活体験の事例です。現実にある奴隷制度、しかし、主にあるが故の社会的(身分)立場を越えた兄弟愛の実証例を確認することができます。

後期のパウロ書簡:教会の成熟、正しく機能する持続可能な教会共同体(神の御住まい)としての教会建て上げを確認することができます。若い諸教会が、成熟した指導者の指導の下で、適切な秩序を保ち成熟した神の御住まいとなるようにとの思いから書かれた書簡です。しかもクリスチャンの成熟度は教会内では勿論のこと、地域社会でも評判を得る生き方であることを示しています。

Ⅰテモテへの手紙:教会はいつも惑わす霊と悪魔の教理を避けることができない現実を知るべきでした。

テトスへの手紙:多くの者が教会に入り込み、異なる教えによって教会の核となるべき家族のあり方を混乱させている現実、また福音を飾る生活になっていないことへの警告、逆に聖書の権威が汚されている現実です。福音に基づく「良いわざ」は愚かな論争にまさるものであることをしっかり認識する必要がありました。

Ⅱテモテへの手紙:自分たちに都合のよい事を教える教師を集めるようになる教会への警告、同時に多くのキリスト者が信仰から脱落する現実を指摘しています。

このようにパウロは主の宣教大命令にいのちがけで取り組むと共に、同時に同等の熱意を持って取り組んだのが、生まれた神の家族、教会の建て上げ、つまりクリスチャン個々人の建て上げを教会で取り組むように示されたのでした。まさに教会こそ、人を建て上げる最良の場、真のいのちの共同体なのだということです。

2017年9月10日日曜日

「建て上げ」

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方(承前)
 3.「建て上げ」という考え方

なぜ、C-BTEが重要であるか、その理由を解き明かす上で、とても重要な基本概念である「委任」について紹介しましました。さらに「建て上げ」という考え方に注目してみたいと思います。

「建て上げ」のギリシャ語(ステリゾウ:στηρίζω)の意味は「しっかり据え置き、強化し、確立し、援助し、また安定させる」等の意味合いで用いられています。それはパウロの宣教活動の中で繰り返し用いられている鍵となる言葉です。

使徒14章1~23節: パウロの宣教に対する激しい迫害の中で弟子となった人たちに対するパウロに取り組みについて、『彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。』(14:21-22)。

15章36~16章5節:パウロの第二次伝道旅行、ヨーロッパ伝道への道が開かれたときの記事です。その結びに「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った」(16:5)とあります。

18章22~23節:再度、パウロは宣教地を訪問し、クリスチャンたちを励まし、信仰を確かなものにするために取り組みました。「それからカイザリヤに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行った。そこにしばらくいてから、彼はまた出発し、ガラテヤの地方およびフルギヤを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた」(18:22-23)。

ローマ1章8-15節:パウロのローマにある主の教会への訪問を切望し「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです」(1:11)と記しています。

16章25-27節:「 私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」(16:25-27)。

パウロがキリストの福音を信じ、救われたクリスチャンたちをしっかりと信仰に堅くし、強化し、揺るぎないもにしようと取り組むのは他ならなぬ主イエス様の思い、父なる神の意図であることを、祈りに表現しています。

Ⅰテサロニケ3章1-13節、特に2節:「私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした」(3:2-3)。パウロの次世代同労者テモテに委任して、テサロニケのクリスチャンたちを励ましています。

Ⅱテサロニケ2章17節:「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように」(2:16-17)。信仰の確かさは福音に基づく「良いわざ」、生き方が伴ってこそであることが読み取れます。

特に「使徒の働き」の著者ルカは主の宣教大命令がどのように展開していったかに焦点を当て、主要な出来事に選び記述しています。単に原始キリスト教会の出来事の記録以上の意図があることに注目したいと思います。その文脈で「建て上げ」の意味合いを理解していただければと思います。

興味深いことに、先に使徒として主から召されていたペテロ、主にある同労者であるパウロを引き合いに出して励ましています。ペテロが建て上げについて言及するパウロ書簡にふれ、信仰の励ましをしていることに注目してください。

Ⅱペテロ3:14-17: 「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」

〈パウロの教会建て上げ過程〉
段階1:福音の宣言
段階2:クリスチャンたちを共同体に集め、その信仰を強化し、群れの監督として長老たちを任命した。
段階3:パウロの働きの継続:手紙を書いたり、訪問したり、教会を建て上げるという パウロの働きを助ける忠実な人たちを訓練することによって。
段階4:パウロは、それらの教会が新しい地に福音をもたらす拠点として用い、パウロ と共に福音のさらなる前進のために参加するよう励ました。
段階5:パウロは、自らが教会を十分建て上げるための助力となるよう、また、次世代にこの働きを継続するために訓練できる忠実な働き人を見出せるよう訓練していた鍵となる働き人に委ねた。

以上の5つの建て上げの過程は、パウロの宣教の優先順位の型を示す上で非常に重要です。パウロは誰よりも主の宣教命令に非常に積極的であったことは間違いありません。しかし、パウロは福音宣教のために開かれた門を目の前にしても、既存の地区教会の建て上げに無関心のまま、新たな地への福音拡大を優先するようなことはなかったということです。
 参照:Ⅱコリント2章12-14節: 「私が、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いてくださいましたが、兄弟テトスに会えなかったので(コリントに遣わしていた)、心に安らぎがなく、そこの人々に別れを告げて、マケドニヤへ向かいました。しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」

2017年9月9日土曜日

「委任」という考え方

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方

「委任」という考え方: 「委任」という考え方はパウロの取り組みから引き出された概念です。使徒の働き13章以降に記されているパウロの伝道旅行を見ていくと、まず拠点都市での伝道が始まり、教会設立、そして救われた人たちの忠実な方に群れの責任を「委任」し、そして次の町、拠点都市へと移動、という一つの循環過程を確認できます。「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた」(使 14:23)。

さらに使徒20:17-38を見ますと、これらの委任は地区教会ごとの長老たちにあったことが分かります。注目すべき点はパウロは3年間で神の全ての計画を彼らにゆだねたことです。ただし、委任について留意すべきことは委任しておしまい、ということではなかったことです。その後、折に触れ、書簡を送ったり、自分に代わる同労者を送ったり、時には自ら再訪問し教え、訓戒し、励まし続けたことです。

中でもテモテやテトスの事例は後々の教会への一つの範例として注目させられます。そのテモテに見られる成長過程は今日の私たちに示す次世代育成の理想的範例です。そのことをしっかり心に据えて、現実的に、かつ段階的、発展的に委任の原則を実行していきたいものです。

パウロの第二次伝道旅行の際にルステラに行ったとき青年テモテを見出し、宣教チームの一員に迎え入れ、訓練され、成長し委任されていきました。その前後の経過、テモテの成長記録に注目し、その時間的経過たどることができます。

神のみことばの権威による基礎
「 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています」(Ⅱテモテ1:5)。
「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」(3:15)。
「それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった」( 使徒16:1-2)。

内面性の成長
「ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった」(使徒16:2)。
「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、--- また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです」(Ⅰテモテ 3:2,7)。

伝道・牧会の成熟
「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」(ピリピ2:20-22)。
「キリストの福音において神の同労者であるテモテ」(Ⅰテサロニケ3:1-5)
「キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」(Ⅱテモテ1:13,2:2)。

生き方の成熟
「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(Ⅱテモテ1:6-7)。       
「あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Ⅱテモテ2:22)。
「あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい」(Ⅱテモテ4:5)。

集大成〉:パウロのモデル
「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(Ⅱテモテ4:6-8)。

テモテはパウロと行動を共にしながら、時にはパウロに代わっての宣教の業に取り組みました。牧会書簡と言われるテモテへの手紙Ⅰ、Ⅱの中にパウロの次世代の働き人して建て上げられていく様子が読みとれます。そしてパウロが次世代の働き人テモテにパウロがしたようにテモテに対して「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」(Ⅱテモテ2:2)と受けたものを次世代に委ねる、委任の原則を示しています。

テモテに見られる成長過程における時間軸
1.節目ごとの出来事
2.メンターたちによる指導
3.伝道・牧会の経験(真実な人間関係を築く)
4.家族建て上げ
5.将来の目標を描く
6.伝道・牧会活動への意欲
7.達成

推薦
①人格の確かさ
②賜物と実の証明
③教える能力
④忠実さ

委任
①信仰の保持
②言葉の論争を避ける
③委任の確かな働き人
④明らかな成長
⑤純粋な良心

C-BTE:教会主体の神学教育・指導者育成の根拠となる聖書のパラダイム、その聖書の範例として考えていただき、今日の私たちの諸教会においてどのように適用できるのかを共に考え、知恵を出し合えればと思います。

2017年9月8日金曜日

C-BTEの基本概念

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」
 2.「委任」という考え方
 3.「建て上げ」という考え方
 4.「ハビタス」としての神学
 5.聖書の「基本原則」

これらの重要な概念に基づく論拠を紹介したいと思います。

基本概念1、「C-BTE」教会主体の神学教育: 「信仰による神の救いご計画の実現」における奥義としての神の家族、教会の存在がいかに重要であるかについて、ほとんどの牧師たちと共有できるものと思います。その教会の建て上げにおける指導者を育成する訳ですから、論理的帰結として教会主体神学教育は理にかなうことを納得いただけるものと思います。

しかし、これまでそうした取り組みを経験していなかったがゆえに、とは言え、原始キリスト教時代、古代教会においては普段になされていた神学教育・指導者育成ではありますが、この理念を実行、実現するには克服しなければならないいくつかの課題があります。しかし、教会は単に集まるところ以上の意味合いがあることを共有できれば、先に紹介した「聖書の基本原則から」の記事で紹介しましたように、聖書の基本原則に基づく聖徒の建て上げに取り組まれることで「教会主体の神学教育」の第一歩を踏み出すことができます。C-BTEのリソースは実際に教会主体の神学教育・指導者育成が取り組めるように編集されています。

C-BTEは奥義としての教会、その命の営みにおける教育、訓練プログラムです。そして教会の牧師はその教育、訓練プログラムにおいて、きわめて重要な関わり合いを持って取り組むということです。特に「聖徒の建て上げ」、次世代の指導者育成におけるリーダーシップはとても重要です。牧師たちに新たな任務を加える、という発想ではなく、牧師に与えられた役割の優先順位の再考であることに注目してください。

改めて聖書に注視する: ①C-BTEは新約聖書の模範、パウロとテモテの手法、イエスが12弟子を訓練した手法に基づくものであり、②C-BTEは牧会と伝道、学問と人格形成を統合したものです。それはキリストの体である教会のいのちの営みにおいてこそ実現可能な取り組みと言えます。③C-BTEは教会の建て上げ、訓練と奉仕の働き、つまり教会の「伝道・牧会」を中心に据えるものであることを共有していただけるのではと思います。

牧師の現実の多義に渡る牧会の務めを考えると、どれだけできるのだろうかと躊躇される指導者もおられると思います。次に挙げる概念「委任」という聖書の考え方を共有することで発展的に取り組むことができると思います。

以下に取り上げる四つの概念、2.「委任」という考え方、3.「建て上げ」という考え方、4.「ハビタス」としての神学、5.「基本原則」等は、なぜ、C-BTEが重要であるか、その理由を解き明かす上で、とても重要な基本概念です。

2017年9月7日木曜日

「パラダイム」の意図

「C-BTEパラダイム(paradigm)」という表現を用いることに、特に「バラダイム転換」との表現には違和感、ないし拒否感を抱かれる方々もおられるかもしれません。聖書理解とか神学の分野で「パラダイム」を用いることが適切なのかどうかの議論は別として、「パラダイム」を用いる表現の意図を紹介しておきたいと思います。

「コペルニクス的転回」?:多くの方にはすでに存知のように「パラダイム」という用語は科学哲学者トーマス・クーンによって提唱されたものです。当然のことながら科学史及び科学哲学上の概念で、その視点から私たちの聖書理解、キリスト信仰、特に神学教育・指導者育成において「パラダイム転換」が必要だ、との提示は現在の理解、取り組みに対する全否定という印象を受けかねません。大げさな言い方かもしれませんが「コペルニクス的転回」ほどの転換要求です。必然的に「上から目線」を感じられる方も少なくないと思います。

一般化された「パラダイム」: 適切であったのかどうか判断しかねますが、クーンの提唱した「パラダイム」という概念は後に一般化され、一時代の支配的な物の見方や時代に共通の思考の枠組を指すようになりました。私たちはそういう意味での「パラダイム」を使用しています。つまり、パラダイムとは特定の共同体に所属する人全員が共有する信条、価値観、手法等について言うものです。例えばバプテストに属する人たちの全てが共有する信条、価値観、手法等をパラダイムと言うわけです。とは言え、決して一元的ではありませんが。

類型: パラダイムの類型として①小局的分類( Microparadigms ):個別の問題(例:頭を覆う)、②中局的分類( Mesoparadigms ):伝統全体(例:形・制度の廃止)、③大局的分類( Macroparadigms ):時代全体(例:宗教改革時代、啓蒙時代、ポストモダンなどが上げられます。
 最近では日本語にも翻訳されているボッシュの『宣教のパラダイム転換』とかハンス・クングの「神学と教会の歴史のパラダイム変化」等に扱われているキリスト教史における「パラダイム」の変遷の捉え方は参考になります。

聖書のパラダイム: そうした中で私たちは改めて聖書のそのものの「パラダイム」に注目し、今日の文化の中で教会の建て上げ、宣教をどう展開できるのかを考えようとしています。それが C-BTE(Church-Based Theological Education)です。しかし、実は、これは目新しいものではなく、聖書の規範、すなわち「キリストと使徒たちに手法」に戻ることです。つまり、C-BTEと言うパラダイムは「キリストと使徒たちのパラダイム」に注目しているということになります。そうであれば、誰もが持つ聖書に真摯に向き合って再考できるパラダイムでもあるわけです。聖書の記述、規範、その意図に基づいて真偽を確かめることができるパラダイムでもあります。

C-BTEパラダイムは以下の五つの基本概念にまとめられます。
1.「C-BTE」「教会主体」という考え方、
2.「委任」という考え方、
3.「建て上げ」という考え方、
4.「ハビタス」としての神学、
5.聖書の「基本原則」から成熟へ、

さらに順を追って説明したいと思います。

                    

2017年9月5日火曜日

基本原則とは

前回、翻訳出版されている基本原則シリーズⅠ、Ⅱの編集構成についてふれました。奥義としての神の家族である教会共同体が建て上げられていくクリスチャン人生、そして教会を構成する各家族の建て上げ、次世代、三世代へと継承される家族です。しかも、置かれた地域社会に貢献できる生き方、しかも主の宣教大命令に応えていく主体的なクリスチャン人生の建て上げです。

基本原則シリーズ: ビルドのテキストにおいにて記されている基本原則の要点は以下の通りです。宣教、告知と言われる「ケリュグマ」の内容は新しい契約と言われていたキリストによる福音、神の再創造の御業です。そしてその福音のもたらす生き方についての教え、ディダケーについて8項目上げています。①福音に基づく考え方の刷新と新しい生き方、②個々の人格、隣人関係に関わる徳、③結婚を含む各家族の建て上げ、④真理の柱、土台である神の家族、教会の建て上げ、⑤教会建て上げに関わる各クリスチャンの賜物、⑥教会共同体における人間関係、愛、兄弟愛、一致、⑦上に立つ権威の尊重、地域社会での隣人愛、⑧「額に汗して」働く、労働の大切さ、自らの必要を自ら満たす責任等々です。
 理想と現実: 現実には様々な問題に直面します。弱さもあります。しかし、信仰は個々人の問題ではなく、神の家族の一員として互いに祈り、知恵を出し合い、励まし合い、時に訓戒し合いながら信仰を持って互いに建て上げていきます。また、教会にはすでに問題を抱えて求道し、信仰に導かれる方もいます。夫婦の問題、離婚、母子あるいは父子家庭など、親子関係の問題、仕事上の問題等々様々です。家族の家族である教会が痛みを共有しながら、聖書の基本原則に基づいて人生再建、再構築のために共に取り組みます。

聖書理解の基としての基本原則: 基本原則シリーズの学びをしておられる方々から、福音書の学びがないのか、旧約聖書の学びがないのはなぜか、聖書には他にも大切なものがあるのではないか、と問われることがあります。C-BTEパラダイムは、他の聖書箇所の学びは不要、と言うわけでないことを理解されての問いと思いますが、なぜ、基本原則なのかを聖書全体の意図から理解しておく必要があります。

教会の教職者にとっては周知の事実ですが、聖書は神の啓示の書であり、最終的にキリスト・イエスご自身の御業に於いて完結しているように理解されているかもしれません。しかし、もう少し注意深く聖書を読んでみると、主イエス様は十字架の死を前にして、父なる神に対する願いによって「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その方は、真理の御霊です」(ヨハネ14:16-17)と約束されました。主たる目的は主ご自身が語られたことを思い起こさせ、またその真意を悟させて下さるというのです。同時に後に使徒として召されたパウロ書簡を読んでいくと、パウロは主ご自身からの啓示、つまり、もう一人の助け主、聖霊を通して示されたことがわかります。ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙にその記述があります。特にエペソ人への手紙に展開されているキリストの体である教会についての奥義は啓示によるものだとあります。

キリストの完全な贖いに基づく、神の再創造の御業は家族の建て上げ、また神の家族共同体の建て上げにおいて具体化していくことがわかります。ですから、ここで示されている基本原則、さらに福音に基づいて推論される聖書の基本原則を理解することで、ご在世当時のイエス様の教え、その意図が明確に理解できるようになるのです。ということは、主イエス様は旧約聖書に記された律法の意図を明確に語られたように、私たちも旧約聖書の意図を真に理解できるようになるということになります。

たとえば、エペソ4章21節以降を読みますと、「あなたがたが心の霊において新しくされ(キリストにある新生)、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」とあります。ここにキリストにある新生がどのようなものであるのかについて解すると共に創世記に記されている「神は人をご自身のかたちとして創造された」とある「かたち」とはどのようなものであるのかがよくわかります。さらにコロサイ3:10「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」とあるみことば、神の「かたち」として人の理解がさらに補完されます。

このように、啓示の圧巻と言える奥義としての教会を通して示された聖書の基本原則を明確に理解し、かつ、知識から知恵に至るように熟考することによって、必然的に聖書全体を理解していけるようになるということです。ですから、基本原則シリーズの学びと訓練が学びのための学びに終わらない取り組みを実行することがとても大切です。

日本版「聖書の基本原則シリーズ」: それでも日本という文化からの視点で考えたときに、福音理解の前提として「創造主である神」についての基本的な理解を共有する学びが大切だと思います。C-BTEパラダイムを真に理解し、共有できた指導者たちによって日本版「聖書の基本原則シリーズ」が編集されることを願っています。

2017年9月4日月曜日

福音と福音に基づく教え

前回、クリスチャンにとって繰り返すことのできない人生の方向性を定める聖書の「基本原則」そのものの存在について紹介しました。しかし、「基本原則」の中身について、聖書には、これが基本原則という項目が箇条書きにまとめられているものはありません。その「基本原則」の中身の鍵となるものが宣教(ケリュグマ)、特に「宣教」の動詞形「宣べる」は新約聖書一貫して出てきます。つまり、キリストの福音の宣言です。そして福音に基づく生き方としての「教え」(ディダケー)に集約されるようです。

音訳の意図: テキストに「ケリュグマ」とか「ディダケー」とあえて音訳の表記に違和感を覚えられるかもしれません。事実、自分もその一人で、翻訳の際、逡巡しました。しかし、あらためてその用語の聖書の「信仰による神の救いのご計画の実現」における重要性を考えると、音訳によってこれまでの先入観を排除し、再考する意味合いがあることがわかります。

BILDインターナショナルサミット等でのセミナー参加の機会に関係者、また執筆に係わった方に質問し、説明を受け、その意図を理解しました。C-BTEパラダイム転換において大切な視点が「初代教会に戻って再考する」ことです。その初代教会において、聖徒の建て上げ、つまりキリストの教会建て上げにおいて最も重要視し、宣べ伝えていたのが、キリスト福音、つまりキリストある新生、そしてその福音に基づく教え、神の民としての生き方でした。初代教会が最も大切なものとし、繰り返し強調されていた「ケリュグマ」と「ディダケー」の音訳によって、今日の私たちも初代教会のように共感しクリスチャン建て上げを再考してみよう、という意味での強調であることに納得しました。おそらく新約学にある程度通じている方でしたら理解できるものと思います。

「ケリュグマ」と「ディダケー」の相関概念:「ケリュグマ」の中心はキリストの完全な贖いに基づく救い、すなわち「福音」そのものです。「信仰による神の救いのご計画の実現」です。エペソ人への手紙1~2章には福音がもっとも明快に記されている箇所です。一言で言えばキリストにある「新生」から始まるクリスチャン生活です。この新生についてはローマ人への手紙6章をも合わせて読むと、より明快に理解できると思います。信じる者はキリストとの合一によってキリストと共に死に、「キリストとともに葬られ」、「キリストの復活とも同じようになる」というのです。それはキリストにあって新しい歩みをするためです。

エペソ人への手紙1~2章に戻り、2章10節にキリストにあって新生した「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」とあります。ここに「ケリュグマ」と「ディダケー」の相関概念を明確に読み取ることができます。さらに2章後半を読みますと、キリストにあって新しい歩みをする人々は個々人の信仰に留まるのではなく、新たな共同体を形成すること、つまり、奥義としての神の家族、教会共同体の建て上げです。

基本原則シリーズⅠ、Ⅱ: 翻訳出版されている「基本原則シリーズⅠ」は神の家族、教会建て上げに焦点を当て、「ケリュグマ」と「ディダケー」を取り扱っています。そして「基本原則シリーズⅡ」では神の家族、教会を基礎づけるもの、教会の核となる各家族の建て上げに焦点を当て、福音に基づく「良いわざ」、教会内外、どちらにも評価に耐え得る生き方を確立する教え(ディダケー)に基づいて建て上げに取り組むように構成されています。これはまさに持続可能な教会建て上げに直結する取り組みでもあります。(続く)

2017年9月1日金曜日

鍵となる概念:聖書の「基本原則」

先回、C-BTEパラダイムは聖書の「基本原則」から、と紹介しました。問題は聖書の「基本原則」は聖書の意図なのかどうかです。現在はBILDから出版されている基本原則シリーズの翻訳テキストを用いています。翻訳ゆえの制約があることは承知の上ですが、聖書の「基本原則」は文化を越え、共有できるものです。なぜなら聖書は神の啓示の書、私たちにとって唯一絶対の規範であることを共有しているからです。問題はそれを理解して、どのように適用していくか、いかに実践的戦略を描き立てることができるか、それぞれの文化の中で考えなければなりません。

まず、「基本原則」そのものについて紹介したいと思います。「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません」(コロサイ2:8)。

基本原則シリーズを学び始めていくときに、この聖句に出てくる「この世に属する幼稚な教え」の「幼稚な教え」こそ「基本原則」の根拠として説明されていることに戸惑いを覚えられる方は少なくありません。私もその一人でした。人によっては、否定的なこととして述べている「幼稚な教え」をクリスチャンが学ばなければならないなんておかしい、意味をなさないのでは、と言います。確かに私たちが持っている日本語聖書を読む限り、その疑問は当然と思われます。まもなく出版される新改訳聖書の改訂版に期待を込めています。もう少し丁寧に文脈から考えると、ここで言わんとしていることは、基本となる教えが異なっていれば、つまりこの世の基本原則、キリストの教えに基づくものでなければ、結果的にキリストにある成熟、すなわち「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」(エペソ4:13)ことはできない、と言っていることにお気づきになると思います。

それでも「幼稚な」という日本語の響きは基本、初歩、根本というよりも、どちらかといえば否定的、揶揄的な語感があります。これは残念ながら日本語聖書の不適切な訳語によると思われます。それは、パウロ書簡の聖書神学から見出だされる概念の一つにキリストの「基本原則」があることに気づいていないからではないかと思います。そういう意味では聖書解釈の問題でもあります。ただし、ガラテヤ人への手紙4章に繰り返されている「幼稚な教え」についての別訳が脚注に記されており、そこでは「原理」つまり「原則」の意である用語も記しています。

「幼稚な」と訳されているギリシャ語のストイケイオンは宇宙万物の基本物質、構成要素、基本とか初歩、また天体という意味をも持つ言葉です。新欽定訳聖書(NKJV)では「この世の基本原則」と訳しています。そうであれば「基本原則」そのものに価値判断は不要です。問題は何に基づく「基本原則」なのか、その「何」の部分が重要になります。私たちはキリストご自身が備えて下さった福音、そしてその福音に基づく教え、すなわち「信仰による神の救いのご計画の実現」(Ⅰテモテ1:4b)するものとなります。

さらにヘブル人への手紙5:12に「 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」ここに述べられている「神のことばの初歩」の「初歩」は先ほどの「基本原則」、新改訳で「幼稚な教え」と訳している「幼稚」のことです。この「初歩の教え」、つまりこの世の初歩の教えではなく、「キリストの初歩の教え」、つまり「基本原則」をしっかり学びとっていないと、クリスチャンが成熟に至ることはないと言うわけです。「初歩の教え」という日本語の響きも、できればその教えを後にしてしっかりした教えに学びなさいと言っているように響きます。これも残念ながら「基本原則」の概念を解していないことによるものと思われます。もっともヘブル書の文脈では「もう一度誰かに教えてもらう必要がある」と言っていますので「初歩の教え」の否定、つまり「基本原則」の否定ではないことが分かります。さらに「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教え(基本原則)をあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」(6:1)と勧めています。「基本原則」は一クリスチャンに留まらず、地区教会の建て上げにも影響していきます。
 
非常に遠回りのようですが、神が意図された再創造の御業であるクリスチャンライフを確立し、地区教会が建て上げられ、世界的規模で宣教の役割を果たすために、まずキリストの「基本原則」にしっかりと根ざしたクリスチャンを建て上げていなければならない、と言うことです。