2020年9月9日水曜日

解説:基本理解22: 「町の繁栄を求め、寄与・貢献する」


基本理解22: 「町の繁栄を求め、寄与・貢献する」

教会が地域レベルで宣教を推進していく時の一番の関心事であり、確かな仕事をし、地域に奉仕する生き方を実践し、緊急の必要が生じた時に応えることで、教会が建てられている地域での貢献者共同体となることを求めていくことである。

 

 解説:C-BTEパラダイムに建て上げられている個々人のみならず、その家族、そして家族の家族である教会はその地域、町においてなくてはならない存在、町、地域、大胆に言えばその国においても寄与・貢献する、できる存在となる、なっていることです。このためにはキリストの福音を信じて救われた、そこに留まらず「神のかたち」としての尊厳性を前提に意識的に、自覚的に福音に基づく「良いわざ」に生きる者として建て上げられていることです。信じ救われたが「肉に属す者」「キリストにある幼子」のまま、「ただの人のように歩んでいる」クリスチャンでは「町の繁栄を求め、寄与・貢献する」ことはできません。「御霊に属する人」です。

 「町の繁栄を求め、寄与・貢献する」クリスチャン、家族、そして家族の家族である教会は御霊に属する人」たちであり、「御霊に属する人」の集まる神の家族です。この人たちは神の約束を信じた、そこに留まらず、信じて自覚的に一歩踏み出し、取り組み、聖徒として建て上げられ、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する---」(エペソ4:13)方向に共に歩み出しているクリスチャンたちです。同時に「御霊に属する人」はパウロように「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:1214)と告白するクリスチャンです。この延長線上に実を結ぶ「良いわざ」、福音に基づく「生き方」は教会内ではもちろんのこと、教会外においても、つまり未信者の中でも「評判の良い人」(Ⅰテモテ37)と評される生き方を実現していきます。そのために大切なことはキリストにある変革への自覚です。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:20)。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(ローマ6:11)。

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」(ヨハネの黙示録2:7)。

 諸教会、クリスチャンたちが繰り返してきた多くの問題は無条件で約束されている第三の「御霊に属する人」としての自覚、その自覚に基づく真摯な建て上げの取り組みに踏み込まず、むしろ第二の「肉に属する人、キリストにある幼子」のまま成長しているがゆえに生じているのです。健全な「聖徒の建て上げ」がなされない結果として「肉に属する人」そのクリスチャンこそが教会において様々な問題を引き起こす要因となっていた、なっている、と言っても過言ではありません。言うまでもなくこの問題は信徒だけの課題ではなく、仮に牧師であっても例外ではありません。結果としてヨーロッパキリスト教界のように実質のない教会、形骸化した教会になってしまうのも時間の問題です。こうした問題は特殊な問題ではありません。是非とも真剣にこの問題に向き合い、確かに「信仰による神の救いのご計画の実現」に至る「聖徒の建て上げ」に取り組みたいものです。聖書の基本原則から始まるイエス・キリストと使徒たちによる「健全な教え」に基づく建て上げ、その取り組みが不可欠です。牧会者には真摯に聖書に向き合って、とりわけ次世代のクリスチャンたちのために「御霊に属する」クリスチャンとしての方向性に、確実に、着実に建て上げられていくように健全なリーダーシップと牧会上の知恵を尽くしていただきたいと思います。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ2:10)。古きに死んで、新しさに生きる神の約束を信じ、約束されている栄光を望みつつ、確かな一歩を踏み出すこと、これこそ「奥義としての教会」、いのちの交わりとしての共同体の建て上げを実現する唯一の道です。これらを実現するのは主日の説教だけでは不可能です。それはキリスト教の歴史が証明しています。個別に神の前に自覚すると共に、各家族や、兄弟姉妹の交わりの中で共に考えながら、知恵を得ることで実現していきます。「神のかたち」として創造された人格的存在であるがゆえに神は全き恵みの救いを備えられただけでなく、他でもない神の約束に信頼して一歩踏み出す信仰が必要です。同時にみことばの真意をさとして下さる内住の御霊を意識し、取り組むことで「再創造の御業」、福音による変革が実現していくのです。

キリストの似姿への変革の道は、あなたの霊的自覚が鍵です。パウロの意志、「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:2627)。信仰の道は無条件の救い、恵みに始まりますが、クリスチャンならではの努力が必要です。仮に失敗の連続であっても失望しません。なぜなら「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。--- もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。---- 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します ---」(ローマ7:1525)。ここに生まれる主を仰ぎ見る信仰が大切です。その必然の結果としてクリスチャンの品性、真の謙遜が生まれます。そのためにこそ恵みによって救われたクリスチャン、そしてさらに成熟へと成長していくために、いのちの交わりとしての共同体、神の家族において先に救われ、建て上げられているクリスチャン指導者たち、長老たちとの対話・問答を通して、また牧師からの指導と訓戒によって「健全な教え」に建て上げられていく必要があるのです。

 最後に、クリスチャン生活における「聖徒の建て上げ」について、愛を前提しますが、「建て上げ」は実に厳しい取り組みでもあることを再確認したいと思います。福音理解の曲解は当然の結末を迎えますが、また「御霊に属する」クリスチャンへの自覚、意志的な取り組みに踏み出せなかったゆえに生じるゆがんだクリスチャンたちに対するパウロの姿勢に注目してください。

Ⅰテサロニケ5:14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。

Ⅱテサロニケ3:6 兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。

Ⅱテサロニケ3:1415 もし、この手紙に書いた私たちの指示(クリスチャン建て上げの健全な教え)に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい

Ⅱテサロニケ3:10 働きたくない者は食べるなと命じました。

テトス 3:10 分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。

 残念ながらこうした神の前でのパウロの率直さ、真なる厳しさを誤解しているクリスチャン、牧師、指導者が多く、真の愛をとは無縁の訓練、指導している方々がいます。知恵の書「箴言」に注目するとパウロの意図は明確です。

「訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ」(12:1)。

「あざける者はしかってくれる者を愛さない。知恵のある者にも近づかない」(15:12)。

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(27:5~6)。

 ただイエス・キリストを信じた、だけに留まらず、個々のクリスチャンが自覚的に「信仰による神の救いのご計画の実現」に至ることを願って一歩踏み出し、共に知恵を尽くし「聖徒の建て上げ」に取り組みたいものです。何よりも摂理の主ご自身がそれぞれの地に建てられた教会において、建て上げられたリーダーたちを用いて「奥義としての教会」にふさわしく建て上げられ、文字通り「町の繁栄を求め、寄与・貢献する」神の家族として存在しうるよう共に祈り、励みたちと思います。