「ハビタスプロセス」-知恵を得る過程-
はじめに: 神学教育のパラダイム転換、C-BTE「教会主体の神学教育」について共に考えていますが、その後の取り組みはいかがでしょうか。とりわけ聖書の啓示の展開におけるキリストの受肉、そして十字架の死と復活、昇天の後、主は再び聖霊を通して啓示されたのが奥義としての神の家族教会共同体、これこそが神の救いのご計画のハイライト、圧巻と言っても過言ではありません。ケリュグマ、ディダケー、福音と福音に基づく教えに建て上げられる神の民、教会の存在です。
今回は教会建て上げにおける神学教育の手法の一つ「ハビタスプロセス」-知恵を得る過程-について紹介したいと思います。これはビルド・インターナショナルとランコープ・リソースの資料(「基本原則シリーズ」等々)を用いてどのように順序立て聖書の知恵を生涯にわたり追求するかの手法でもあります。つまり、「ハビタスプロセス」は地区教会が会員を教育、訓練し、その生涯に渡る聖書の知恵の追求を手助けするために順序立てられ、体系づけられた聖徒建て上げプランを提供するために創られました。
「ハビタス(ラテン語 habitus ):習慣」の主要概念: 「ハビタスとは習慣とすることや実践することで得られる完成、あるいはぶれない状態、情況を言う」。つまり、人間が理性と思考の追求を通して手に入れた性質ないし気質を意味します。神学的視点から言えば、神の知識と知恵を追求することで手に入れた習慣がその人の内性、気質、振る舞い、つまり聖書の言う「心構え」(ピリピ2:5)となるということです。聖書自体の証言として明確に、信者一人一人が神のことばを真剣に学ぶ者であり、人生のすべての場面で聖書的に考えることを学ばなければならない、という命令が与えられています。
しかし、ハビタスとしての神学、「日々聖書から神についてより深く学ぶこと、すなわち、いかに魂を正しく導くかという知恵を得るはずの神学(聖書、聖書原語、重要な文献の学び等を通して)、またどのような状況にある人にとっても必要な学びであるにもかかわらず、牧師などの専門職の備えのための学問的な学びに置き換えられてしまっている」と指摘されています。(参照:Developed by Edward Farley in Theologia: The Unity and
Fragmentation of Theological Education)
現代の西洋文明の中で私たちは魂の方向性の原則を、学問的知識を得る目的と捉え、専門的な働きをする知的学問の追究に傾斜してしまったというわけです。結果として、今日のクリスチャン教育が個々人の生涯の発展的な学習であるにもかかわらず、各世代、分断された統一のない教育になっているのが現状ではないでしょうか。こうした核心的な問題点を自覚し、真摯に聖書に戻って再考するハビタスのプロセスは各個教会共同体での生活、いのちの交わりの中でなされる神学教育の聖書的原則をもう一度確立する方法を提供していることに注目していただきたいのです。近年では一般教育の世界ですでに「考える」教育に大きく移行していることが注目されます。
「ハビタスの手法」:すべての信者がたどる三つの段階
段階1: 聖書の「基本原則」を理解し聖書的に考える力の育成
段階2: 生涯に渡って知恵を追求するための基礎の育成
段階3: 生涯に渡って聖書に精通するための追求
各段階とも資料を順序立てて学ぶようになっていますが、聖書の主要な概念に精通するだけでなく魂の本性(傾向)を得るものとなっています。
「ハビタス」:根拠 はっきりと聖書の中には信者一人一人が神のことばを真剣に学ぶ者であり、人生の全ての場面で聖書的に考えることを学ばなければならないという命令が与えられています。しかし現代の西洋文明の中で私たちは魂の方向性の原則を学問的知識を得る目的と捉え、専門的な働きをする知的学問の追究をしてきました。ハビタスのプロセスは聖書的原則をもう一度確立する方法を提供します。つまり地区教会共同体の生活、人との関わりの中での神学教育です。
「ハビタス」:歴史 教会史を見ると聖書を真剣に学ぶ事が常に要求されてきていました。初代教会では信条(doctrinal statements: 教義声明文)とディダケー(teaching
manual: 教えの手引き書)は必須知識でした。宗教改革以降はconfession: 告白(advanced creeds: 高等信条)とカテキズム(advanced
didaches高等ディダケー)が順序立てられた学び方の一つでした。教会が繁栄した時、それは神の民が真剣に聖書を学び、聖書的に考えた時でした。とりわけ旧約聖書が書かれたヘブル語の知恵(hm'k.x:hokmah)はハビタスの実際的な定義を的確に説明しています。ホクマー「知恵」は文字通りには「生きるうえでの技能」という意味で、精神的技能(聖書的に考える能力)と生活技能(正しく人生の選択をする能力)の両者の開発、発展を意味しています。私たちの文化の中でも「習慣は第二の天性」という表現が用いられますが、ハビタスとは人種、職業、性別等に関係なくすべての人間が一生涯に渡って身につけなければない魂の方向性と言い得ると思います。
「ハビタス」:意味 「ハビタス」はラテン語で、英語の「習慣」という言葉にあたります。そこから学びの習慣という概念が思い浮かびます。ローマ人はハビタスを哲学的に用い「習慣とすることや実践することで得られる完成した、あるいはぶれない状態ないし状況」であると記しています。つまり人間が理性と思考の追求を通して手に入れた性質ないし気質を意味しました。神学的に言うと、神の知識と知恵を追求することで手に入れた習慣がその人の内性、気質、振る舞いとなるということです。
「ハビタス」の実際的定義:生涯知恵を追い求めるための心の方向性
旧約聖書が書かれたヘブル語の知恵(hokmah)はハビタスの実際的な定義を見事に説明してくれています。Hokumaは文字通りには「生きるうえでの技能」という意味で、精神的技能(聖書的に考える能力)と生活技能(正しく人生の選択をする能力)の双方の発展を意味します。下の二つの聖書箇所はそのことを非常に顕著に記しています。
子どもらよ。父の訓戒に聞き従い、悟りを得るように心がけよ。
私は良い教訓をあなたがたに授けるからだ。私のおしえを捨ててはならない。
私が、私の父には、子であり、私の母にとっては、おとなしいひとり子であったとき、父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。箴言4:1~9
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。
帰って来てください。【主】よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。詩篇90:10~17
箴言をみると著者は若い人たちに、生涯に渡って知恵を、神からしか得られない知恵を追い求めるよう、しかもそれを人生の主要な目的とするよう勧めています。詩篇では、モーセは私たちに、すべての人が知恵の心を神に向け自分の日、70年か長くても80年を数える必要に気づくように言っています。心(そして命)も聖書が示す技能をいただいて生きる、まさにそうした時のみ。モーセが言っているように、神は私たちの手の業を確かなもの(永遠なもの)とされ、神の慈愛(美しさと麗しさ)は私たちの日々の生活の上にあるのです。残念ながら、ほとんどの信者はこの技能を高めようとしません。
例えば、雅歌は神の示す成熟した美しいロマンチックな愛と結婚を描いて見せてくれています。しかしほとんどの信者は雅歌をそのような本であると見なすことも、ましてやその概念を見つけることも難しく、結果的に自分たちの思春期を迎えた子供達に伝えていくこともできないでいます。(続く)
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