2017年10月26日木曜日

地域に貢献する教会(3)

「お金」について

教会が神の家族内で助けを必要としている方々への援助はもちろんのこと、教会外、地域社会においても助けを必要としている方々へ愛の手を差し伸べ、地域の繁栄に貢献する存在について確認してきました。「貢献する」という視点から「お金」、また「富」について聖書の意図を理解しておきたいと思います。

「お金」に対するタブー: 私たちの文化の問題でもあるかもしれませんが「お金」について話題にすることに躊躇する傾向があります。ましてや教会ではなおのこと正面切って話すものではないようです。しかし、福音に基づく「良いわざ」としての地域貢献、しかも主の宣教大命令に直結する貢献を考える上で「お金」を切り離なして考えることはできません。むしろ主の働きが広がるためには利益を得ることのできる働きを積極的に考えるべきです。
  なぜ、躊躇してしまうのか、考えられることの一つとして長くカトリシズムの教会が歴史的に続いたがゆえに「禁欲」は広く宗教の本質であるかのように受け止められていると思われます。つまり人間の本能である「食欲」、「所有欲」、「性欲」の否定、禁欲です。しかし、人間の本能それ自体が罪ではなく本能を制御する考え方、価値観が間違っている場合があるのです。私たちは聖書に規範に基づいて本能を制御することで幸いを得るのです。
  今回の主題である「お金」の問題を考えるなら、一般的に「所有欲」の否定としての「清貧」は一つの理想的な徳として染みついているようです。それゆえに、現実的に必要不可決な「お金」についての話題そのものをタブー視(禁忌)してしまうのではないでしょうか。改めて共に考え、お金に対する間違った考え、ないし間違った教えについて話し合う必要があります。むしろ教会で聖書の意図に基づいた教育がなされなかったことについて、また誤解や間違った教えについて正される必要があるのではないでしょうか。教会が地域社会に貢献する存在であり、その「良いわざ」は主の宣教大命令に応えるものである、と言う視点から共に話し合って見ましょう。その上で以下の聖書箇所の意図を共に考えてみたいと思います。

 聖書の意図: 確かに聖書を読んでいくと「お金」については警告的教えが目につきます。一見すると否定的な教えと受け止めてしまいがちです。例えばイエス様の教え「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24)と明言しています。ここだけを読むと二者択一、「神様」か、「お金」かと考えてしまい、結果的に「お金に」に対して否定的になります。すぐ前にイエス様は「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」とあり、さらにその前後を読みますと、決して二者択一ではなく、優先順位を示していることがわかります。祝福の源である神様を第一にする、神の規範、価値観に基づいて富を管理することです。「お金」は目先の錯覚ではありますが、神に代わってしまうほどの万能感を持っています。その万能感に惑わされないために私たちは聖書の基本原則に基づいて建て上げられていなければならないのです。
 初代教会が誕生したとき、自然発生的に、かつ自主的に互いに支え合う共同体となっていることが読み取れます。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:44-47)とあります。さらに、「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」(使徒4:34-4:37)とあります。さらに読み進むとわかりますが「やもめ」のよう助けを必要としている方々が教会に加えられていたことがわかります。キリスト教会は決して共産主義的な私有財産を否定する共同体を目指していたのではなく、教会内外に貢献する神の家族としての聖書の意図を理解し、実践していたのです。つまり、持てる者は「すべてを捧げる」というのではなく余剰の富を、助けを必要としている人々のために豊かに用いたのです。時にはマケドニヤのクリスチャン達のように「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ」(Ⅱコリント8:2-3)ることもあります。
 十字架のイエス、復活のキリストに意図された「信仰による神の救いのご計画」を明確に解したパウロは教会内外に貢献する神の家族を明確に理解していました。
 「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」(Ⅰテモテ 6:10)。神を第一とする優先順位が明確に確立していない中で金銭を愛する悲劇的な結末です。しかし、富を「お金」を否定しているわけではありません。続いて読んでいくと、
「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように」(Ⅰテモテ6:17-19)との勧めに注目して下さい。祝福の源である神に、永遠に残るもの、福音に基づく「良いわざ」のために富を用いることです。富める者の排除ではありません。
  つまり、「神か富か」ではなく、「お金」の万能感に惑わされず、永遠に残る価値あるもののために持てる富を豊かに用いることを明確に示しています。この聖書の意図をしっかり捉えているなら、貢献する教会を建て上げ、主の宣教大命令に応えていくために知恵深くに「お金」、「富」を豊かにしていく実際的な取り組を展開させていけるのではないでしょうか。

ヤコブ(ヤコブ51-5節)は「お金」の持つ万能感のゆがみについて警告しています。

聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。
 誤解しないで下さい。「富の否定」ではありません。「お金」の持つ万能感にゆがめられて、価値のない富になっていることへの警告、また額に汗する労働に対する正当な対価を支払わずに得た不正な富への警告です。(続く)

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