2020年7月16日木曜日

解説:基本理解15:「文化の中での神学」


基本理解15: 「文化の中での神学」

教会の指導者や信者たちが聖書神学という規範に支えられ、生き生きとした共同体を作りながら再創造の御業として文化芸術を生み出し、真の意味で色々な必要に応える者として生活をする中で社会の価値観に影響を与える教会活動である。

 

解説:優先すべき使徒たちに伝えられたキリストの“教え”ディダケーのひとつ「信者と家族の確立」があげられます。聖書の核心的要素は以下の通りです。

〈行為の矯正〉—“脱ぐ/着る”

〈徳〉—“御霊の実”

〈家族関係〉—“家族

〈真の共同体〉—“愛”

〈教会外の隣人への振る舞い〉—“隣人愛”

〈国家への服従〉—“上に立つ権威に従う”

〈責任ある生活〉—“落ち着いた、 気をつけ” 

私たち教会のクリスチャンたちは健全な基礎が築かれているだろうか、世界的な視野で見ると、何百万の諸教会が 設立されていますが、しかし 多くは 失われています。最近のアジアの事例でも400もの教会が建てられたが、50教会に減少してしまった国がある聞いています。しかもその諸教会もしくじっている、と言うのです。何故に、これらの諸教会は存続できなかったのかについて以下の課題が指摘されています。

①タイプのような指導者、地区教会の牧師を適切に訓練することの失敗

②その地、固有の文化理解の不足:(文化の中で神学する)

③不完全な教会の定義

④「使徒たちの教え」に安定を欠いた諸教会

⑤指導者育成の学科を持つ神学校と聖書大学の不足等々が上げられている。

さらに「神学する」技能、特に「文化の中での実践神学」(民俗学的技能を含む:①方針の計画、②教会の諸問題の解決、③その上での宣教活動の計画)、文化の中での包括的な信仰体系の構築を欠いていることです。

 そのような観点から「生き生きとした共同体を作りながら再創造の御業として文化芸術を生み出し、真の意味で色々な必要に応える者として生活をする中で社会の価値観に影響を与える教会活動」を確立しているかどうか、という問いかけに注目して下さい。

 

文化の中で「神学する」具体的事例:「一期一会」の精神(茶道用語)

 クリスチャンの成熟のしるしとして「もてなし」(Ⅰテモ 3:2、Ⅰテモ 5:10、ヘブル 13:2)があります。神の愛に応答したクリスチャンにとって「もてなし」はそう大きな課題ではないかもしれません。日本の文化では「一期一会」という「もてなし」に関する高貴な精神的理念、作法があります。真に神の愛に動かされるクリスチャンこそ、内実の伴う「一期一会」の精神を実現できるのではと思います。また、信頼と尊敬の隣人関係が宣教に結びついていくものと考えられます。「一期一会」の語源は日本の茶道にありあす。「神学する」事例として参考までその主要観念を紹介します。 

「茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くせ」といった、茶会の心得からのものです。安土桃山時代の茶人で茶の湯の大成者である利休(千利休152291)の弟子「宗ニ」の『山上宗ニ記』に「一期に一度の会」とあり、ここから「一期一会」の語は広く使われるようになったとのことです。「一期」と「一会」をそれぞれたどると、「一期」は仏教用語で人が生まれてから死ぬまでの間を意味し、「一会」は主に法要などでひとつの集まりや会合を意味しており、ともに仏教と関係の深い言葉でもあります。

 「万延元年3月3日も雪だった」(船橋聖一「花の生涯」)、水戸浪士らによって暗殺された「桜田門外の事件」(1860年万延元年)で知られる幕末の大老井伊直弼は茶人としても知られています。彼の著書「茶の湯一会集」が「一期一会」の出所です。

「そもそも茶湯の交会(親睦を深める)は一期一会といいて、たとえば幾度同じ主客交会すとも今日の会にふたたび帰らざることを思えば実に我一世一度の会なり。さるにより主人は万事に心を配り、いささかも粗末なきよう深切(ゆきとどいて、丁寧なこと)実意(真心)を尽くし、客もこの会にまた会いがたきことをわきまえ、亭主(客をもてなす主人)の趣向何一つも愚かならぬを感心し、実意をもって、交わるべきなり。これを一期一会と云う。かならず、かならず主客ともなおざりには一服をも、もようすまじきはずのこと、すなわち一会集の極意なり。」

 「主客とも余情残心を催し、退室の挨拶終われば客も路地をいずるに高声に話さず、静かにあとを見かえりいでゆけば、亭主はなおさらのこと客の見えざるまでも見送るなり。

さて中潜り、猿戸(庭の入口の簡単な木戸)、その外障子などは早々締め立てなどいたすは不興千万一日の饗応(もてなし)も無になることなれば決して客の帰路見えずとも取り片づけいそぐべからず。いかにも心静かに茶席に立ち戻り、この時、にじり上がりより入り、炉前に独座して、今しばらくもお話しあるべきにもはやいずかたまで参られべきや今日、一期一会すぎて、再び帰らざることを観念し、あるいは独服(茶を点てて飲む)などいたすことなど、これ一会極意の習いなり。この時、寂寞(せきばく;物音が何もしない)としてうち語ろうものとては釜(茶釜)一口飲みにしてほかにものなし。まことに自得(自分で悟る)せざればいたりがたき境涯(人それぞれの立場)なり。」

※参考:奥田正造(成蹊学園、成蹊女学校二代目校長)の「一期一会」に関する精神講話

  日本の伝統的文化のひとつでもある「一期一会」に込められた「もてなし」の文化がどのような特質を持つものであるかを理解した上で、聖書の教える「もてなし」について「神学する」ことで真の意味での影響を与える新たな文化を築いていく一例として紹介しました。

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