2020年5月17日日曜日

解説:基本理解5:「アンテオケの伝統」


基本理解5:「アンテオケの伝統」

「アンテオケの伝統」とは「キリストとその使徒たちの手法」に則った初代教会の主要な三つの伝統の中の一つで、21世紀に全世界規模でこの伝統に戻るためのモデルとなるものである。

 

解説:新約聖書時代、つまり原始キリスト教時代から「奥義としての教会」の拡がり、宣教の拡がりは自然発生的なものでした。同時に集められた真の共同体、教会は福音に基づく生き方を確立していったがゆえに、きわめて魅力的ないのちの共同体として地域へと広まっていったのです。その核となるのは複数世代にわたる家族の建て上げです。堅実に成長する子供たち、奴隷制度はあっても内実、主人と奴隷は兄弟姉妹として一つのテーブルに着く、制度を超えたものでした。その生き方は文化に対する世界的な影響力となり、平行して主の世界宣教大命令を実現していったのです。シリヤのアンテオケ教会は「キリストとその使徒たちの手法」を実現し、後の「アンテオケ学派」として知れる伝統を確立していきました。

 「教会」とは「人の集まり、集会」を意味し、初代教会は「信者の集まり」と解していました。つまり、教会理解の本質は「集まり方、その持ち方」にあるのです。三世紀までの初期教会から、信者が集う目的は何のためであったかを考えると教会の集まりとは、(1)主の晩餐記念のための食事を共にする集まりであり、そこでは(2)宣教と教え、(3)詩篇、賛美歌と霊的讃美があり、(4)町のいたるところ、その家々での集会でした。それらが(5)自然発生的拡がりの主要因となっているです。

集まりの特色に注目すると初代教会の自然発生的な発展にあります。毎週、週の初めの日に、復活のキリストを思い、信者たちが家庭や借家に集い、夕食を中心にキリストにある自分たちの「新しい人生を祝う」という「単純な集まり」に関係がありました。当然のことながらそこには知人友人、親族が招かれていました。

 これら小さく単純な集まりの中心は食事をすることであったのです。これが、初期教会が自然発生的に拡大する糧となったと思われます。まさに「家々でパンを裂き交わりをしていた」という使徒2:24の理解から始まるものです。そして、パウロによって「主の晩餐」に関わる教えが完全に開示され各教会に伝えられた「主の晩餐記念」は世界中でこの集まり(教会)にのみに与えられた代名詞となったのです。この単純な小さな、組織的ではない集まりが教会と呼ばれました。彼らの集まりは、突き詰めて言えば、「ケリュグマ」を実践する共同体でありました。それはすべての集まり(教会)がそうであったと思われます。そして、その集まりの四つの要素として①「使徒の教え」を守り、② 交わり、③ パンをさき、④ 祈りを共にしていたことです。このように主は信者の数を増し加え、四つの要素を持つ、小さな、単純な信者の集まりがローマ帝国社会、言い換えれば世界中に拡がっていったのです。奥義としての教会、神の家族共同体について啓示されたパウロの教会理解は「家の教会」です。つまり、クリスチャン家族、その家族(親族を含む)の集まり、そして「共に食する」 教会ネットワーク、神の家族の広がりでした。

 最初の三世紀、初代教会がスピードと広がりを持って拡大して行った理由は第一に挙げられる主要なものが個々人の自発的な行動でした。教会は回心し人たちが集まりを作ると、その集まりに初代教会から受けた教えの体系、キリストの福音と福音に基づく生き方、その教えを伝えてまとめていくことで、単純に広がっていったのです。まさに聖書の「基本原則」の理解、「聖徒の建て上げ」、そして「委任」です。

 そうした教会の集まりは個人の家でのクリスチャンの集会、ないし、集会のために改装された家での集会はコンスタンティヌス大帝の保護の下に置かれるようになる4世紀の初めまで普通のことでした。その後、バシリカ様式の会堂を建てるようになりました。すなわち、約300年間も、クリスチャンたちは家で集まりを持っていたことになります。小さな家の教会は、友人を招待したり、親族やシナゴーグ仲間、隣人、同僚を訪問して自分達の定期の集会や食事会に来るように誘うことで教会ネットワークが拡がって行ったと考えられます。

イエスの食事の継承:「主の晩餐記念」 共に食するという伝統は、過去には最後の晩餐に、今は共同体での食事に、将来は、ユダヤ人の宴、ないしは、おそらくすべてのクリスチャンが一堂に会する宴に見られるものであると考えられます。

初代教会の「主の晩餐記念」:

1. 主の晩餐を守るために集まった。「主の晩餐」という用語は集会全体を言う言葉として使われていた。

2. 食事の前にキリストの体が裂かれ、新しい契約が今やキリスト教会と共にあることの象徴としてのパンを裂いた。

3.  実際は貧しい人たちのための後援者の食事でもあったが、その食事の主な目的は集会に交わりと家庭(家族)的な雰囲気を持たせるためであった。

4.  食事はグループの一致と一つ心を育てるためにも役立った。お互いの輪、関係を体験的に育み、そのことを通してお互いと神の前に正しい考え、規範を持ち、また神のことばを問答し合った。

5.  一人一人集会に、みことばを教えたり、訓戒したり、みことばからの勧めをしたり、歌を歌ったり、讃美歌や霊の歌を歌ったりと、何か貢献するものを持ってくるものと考えられていた。

6. 集会には秩序があり選ばれたリーダーがその場をリードしたと考えられる。

7. リーダーは教会やネットワーク教会の懸案事項、また福音の拡大のために労している人たちとの語らいの場としても集まりを用いた。(使徒 20:17

8. 集会は地区教会以外の人たちにも開かれていた。 

家庭で、家族的な環境で、食事の交わりを通して、記念として、また真の、個人的な、相関的な双方向の交流をなし、一部儀礼的(パンを裂く、接待式)集まりでもありました。このように初代教会は毎週、週の最初の日の夕方に主の晩餐と呼ばれるものを中心に数時間、集まっていた。この習わしは初代教会の最初の3世紀まで続いたのです。 

集会/食事の内容

 1. 開始:祈りと歌(カテキズム的要素)

 2. パンを裂く

 3. 食事の開始、非公式な要素と公式な要素:「主の晩餐記念」と「愛餐会」

 4. 杯を交わす

 5. 終わり:歌と祈り(カテキズム的要素) 

1世紀と2世紀の初期のクリスチャンは主の晩餐を『愛餐』とも呼んだ。その当時、人々はパンと葡萄酒を宴の中で食していました。しかし、テルトリアヌ(197年バプテスマ)の時代あたりになるとパンと葡萄酒は食事から切り離されるようになった。2世紀の終わりごろには食事と、パンと葡萄酒は完全に切り離されました。さらに4世紀までには「愛餐」はクリスチャンの間で禁止された」のです。

 食事が禁止されると「パンを裂く」と言うことばも、「主の晩餐」ということばも使われなくなり、簡素化されてしまった儀式(パンと杯のみの儀式)は「聖餐式」(ユウカリスト)と一般に呼ばれるようになったのです。こうして「主の晩餐」はもはや共同体の行事ではなくなり、遠くから眺める司祭の儀式となったのです。そして4世紀から5世紀にかけて、聖餐式が祝われるテーブルに対しての畏敬と恐れの念が増幅されていきました。同時に「アンテオケ学派」は歴史の表舞台から消えていったのです。10世紀ごろになると、からだという言葉はクリスチャン用語となり、結果、主の晩餐はパンを裂く祝いをするために共に集まる(教会)という考え方から全く離れたものとなりました。これらすべての流れから「聖体変化」(化体説)という教義が生まれるわけです。この教義は12世紀から13世紀にかけて完成しました(1215年 第四次ラテラン会議においてサクラメントの「全質変化」)。

「キリストと使徒たちの手法」そして「アンテオケ」伝統は(1)「神の家族」としての教会を見える形にする(家族という社会構造:共同体)、(2)集まりに自然な形での交わりの要素を入れる、(3)集まりの中心にケリュグマの心を入れる:宣教(イエス・キリストの良きおとずれ:福音)、(4)慈善家の集まりの中で瞬時に新しい共同体を作り出す:魅力的な福音に基づく「良いわざ」:宣教、(5)単純かつ普遍的、(6)真の「教会ネットワーク」構築していくことです。

 初代教会の自然な拡大は、貸家またはだれかの家に夕食を中心に週の初めの日に信者たちがキリストにある新しい命を祝うために、単純な形で共に集まったことに関係がある、と思われます。 

アンテオケ学派:アンテオケの伝統

1)リソースセンター

2)教会に所属する学者(聖書・神学)

3)会議(発表)、 訓練、 同胞による研修

4)指導者ティーム (使徒的指導者たち)

5)文献、研究論文の発信

6)聖書の原型としてのモデル 

アンテオケの伝統は400年間続き、そしてローマ帝国を変革させていきました。しかし、次第に大事なものを失い始めていったのです。すなわち、

※使徒たちから知識人へ、

※牧会者から 個人的な成長へ、

※新約の実践から 公的な宗教活動へ、

※文字通りの解釈から 複雑な意味(学問的) の追求へ、 

それゆえに私たちは、16世紀宗教改革は聖書の意図に戻ると言う点で大きな影響をもたらしましたが、同時に初代教会、使徒後300年間の教会に戻って「アンテオケの伝統」を再考することが重要なのです。 

参考文献:

Going to Church in the First Century: An Eyewitness Account, provides an imaginative reconstruction well founded historically. R. J. Banks,

Beginning From Jerusalem: The Making of Christianity, Vol. 2, by James Dunn.

The Spontaneous Expansion of the Church by Roland Allen

“Acts and the House Church,” by Bradley Blue in The Book of Acts in Its First Century Setting—Volume 2

Families in the New Testament World : Households and House Church, Balch and Osick,

2020年5月14日木曜日

解説:基本理解4: 「教え:ケリグマとディダケー」


基本理解4:「教え:ケリグマとディダケー」

初期の教会がケリグマ(福音の物語)、ディダケー(教え)と呼び、すべての信者が聖書の「基本原則」から注意深く建て上げられていく必要のある教えの中心、すなわち、キリストの教えの本質であり、書簡(手紙)そして最終的には「福音書」という形でキリストの使徒たちを通して教会に伝えられたものである。

 

解説: 聖書の「基本原則」から建て上げられるべき大前提として、創造主の存在、いのちの創造主がご自分の「かたち」として人を創造された、という理解を明確にします。「神のかたち」としての人間の存在目的、また具体的にどのような「生き方」を望まれているのかを認識します。その上で約束されたメシヤ、救い主イエス・キリストの存在と完全な贖罪の業を成し終え、復活されたキリストに注目することです。

人がクリスチャンとして歩む決断にいたるきっかけは様々です。家族関係、地域社会における人間関係、あるいは学校や職場での人間関係につまずいたり、失望している中で聖書あるいはクリスチャンに出会い受容され、慰められ、励まされてクリスチャンとしての生き方に踏み出します。また人によっては、両親がクリスチャンで自然な形でクリスチャン生活を始めている人など様々です。ここで問題になるは、その当面の問題、課題から解放された、と言うだけでなんとなくクリスチャン生活を続けている方がいるということです。もちろん自覚的に問題意識を持ち、「信仰による神の救いのご計画の実現」に至るように積極的に学び、訓練を受けている方もいます。

 いずれにせよキリストのもたらした福音に基づいてクリスチャン人生を構築する、と言う自覚、そして意志的に実際の取り組みに一歩踏み出すことが大切になります。つまり、創造主の意図、キリストにある再創造の御業としてクリスチャン生活を始めることです。なぜなら創造主が完全に備えられた救い、神の御子イエス・キリストの身代わりの死、つまり贖いによって開かれた救いは信じる信仰に始まり、さらに信仰へと進ませるものだからです。ローマ人への手紙6章を読んでいただくと明確です。核となるみことばは「6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」「6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」つまり意識、意志の伴う考え方の改革です。「注意深く建て上げられていく必要のある教えの中心、すなわち、キリストの教えの本質」であるケリグマ:福音理解です。先きに記した「私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため」とあるように福音に基づく「新しい生き方」を実現していこう、という意志、決断です。しかも自覚的に、意志的に取り組まなければ実現しません。失敗、挫折は織り込み済みの全き恵みの神の先行的救いです。ゆえに感謝を持って「信仰に始まり信仰に進ませる」のです。

 もし最初の基本原則に取り組まなければコリント教会のクリスチャンたちが指摘されていた問題の根源、つまり「肉に属する」「キリストにある幼子」「ただの人」のような歩み、クリスチャン人生になってしまいます。「Ⅰコリント3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。--- 3:3 あなたがたは、まだ肉に属してい

るからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」これを克服し、神の再創造に御業を実現していく唯一の道は「聖書の基本原則」から取り組むことです。

2020年5月11日月曜日

解説:「C-BTEマニフェスト」基本理解3:「信仰の人に委ねる」

C-BTEマニフェスト」基本理解3:「信仰の人に委ねる」

牧師は「主の宣教大命令」という観点から、「健全な教え」に教会の監督責任を委ねていける指導者、恒久的で世代間の連鎖を生み出すような次世代指導者の育成を真剣に考える必要がある。

 

解説:「信仰の人に委ねる」これはC-BTEパラダイムの核心部分として見逃せない大切な基本理解です。一般的に次世代牧師の建て上げは教派別、また超教派で存在する神学校、つまり牧師を養成する専門教育機関が担っています。入学条件は「明確な召命を得ている者」です。通常は、牧師は教育・訓練において皆無とは言えませんが、直接には関わることはなく、教育の専門家に委ね卒業を待つだけです。この結末が欧米プロテスタントキリスト教界の世俗化、その伝統を踏襲する日本のプロテスタント教会の多くが高齢化、無牧教会の広がりの現実に直面しています。外的要因としては経済構造の変革、社会構造、特に家族のあり方の変化があります。しかし、もし教会が聖書の規範、聖書の基本原則に基づいてクリスチャン、クリスチャン家族の建て上げを実践していたなら、そして「信仰の人に委ねる」ことを実践していたら危機に直面する現実の社会において、むしろ影響力をもたらす共同体としての存在になっていたはずです。

「信仰の人に委ねる」は「基本理解2:建て上げ」その延長線上にあります。つまり、聖徒の建て上げ、その先に教会への賜物としての指導者の建て上げ、委任があることに注目したい。名称はユダヤの伝統と共有するもの、たとえば「長老」などがあるが大事なことは「信仰による神の救いのご計画の実現」に至る福音理解、福音に基づく健全な教えを共有し、それに基づく「良いわざ」に生きていることです。

一例を挙げると、

使徒の働き 14:23 また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。

使徒の働き 15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

エペソ4:11~13 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです

テトス 1:5 私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。

Ⅰテモテ 5:17 よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。

ヘブル 13:7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

ヘブル 13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。

ヘブル 13:24 すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。 

こうした指導者が具体的にどのような方々であったのかはⅠテモテ3章、テトス1章を読むとその人格、生きた方、そしてその役割が見えてきます。またその生き方はクリスチャン成熟の姿でもあります。牧師の役割は非常に重要です。そしてその牧師によって複数の指導者が生まれるなら、その指導者たちの中から牧師として役割を果たす器が建て上げられるのを想定することができます。さらに牧師の牧師として、「使徒的指導者」として主の宣教命令を実現していく大切な役割を果たしていくことになります。

先に言及したように、いわゆる主日礼拝の「説教」だけでは委任できる次世代の指導者、聖書の意図する指導者を建て上げることは望めません。牧師の使命として「信仰の人に委ねる」ということを真剣に考え、かつ明確な目標を持って取り組むことです。同時に、委任された次世代指導者自身はやはり次世代を建て上げ委任できる指導者になることによって「恒久的で世代間の連鎖を生み出すような次世代指導者の育成」を実現したことになります。

2020年5月1日金曜日

解説:「C-BTEマニフェスト」基本理解2:「建て上げ」


C-BTEマニフェスト」基本理解2: 「建て上げ」

福音(パウロの「初期の手紙」)に建て上げられ、教会に委ねられた働き(パウロの「中期の手紙」)を実証し、神の家族として成熟(パウロの「後期の手紙」)していく健全な教会を建て上げる過程である。

 

解説:「基本理解1」において「パウロのサイクル」つまり教会の主体的な宣教戦略を構想し、立案の必要性を考えました。その宣教戦略を実現するためには確かなクリスチャンを建て上げることが大前提になっています。それが基本理解2:「建て上げ」の意図です。

ほんとうに福音に出会いクリスチャンとして歩み出した人たちの内に生じるのは、この素晴らしい福音を身近な人たちに伝えたいという思いです。それは組織の強制感からではなく、神の愛がもたらす必然のように思われます。それが一時の思いに終わらないために牧会指導者は聖書の基本原則を教え、指導し、「建て上げ」なければなりません。つまり、福音に基づく「良いわざ」としての生き方、しかも未信者の間でも「評判の良い」生き方を確立することです。当然のことながら、それは個人に留まらず、結婚、夫婦の関係、子育て、隣人関係等を含みます(Ⅰテモテ3章)。その前提には神の創造された人間の本質でもある「額に汗して働く」、自分の必要は自分で満たす労働、職業を考えることの大切さを教え指導する必要があります。

 すでに家庭生活を営み、社会人として責任を果たしている方がクリスチャンとして歩み始めたとき、同様に聖書の基本原則に基づく生き方を再考し、聖書の倫理観、価値観に基づいて再構築し、建て上げられることが必須課題です。言い換えれば「神の再創造に御業」を個々のクリスチャン、クリスチャン家族において実現していくことです。言うまでもなく、これは個人主義とは無縁の「いのちの共同体」、神の家族共同体としての「教会」を建て上げていくことに直結する教育、訓練の「建て上げ」なのです。

 こうした聖書の意図に基づいて建て上げられたクリスチャン、その延長線上に主のいのちの共同体を治め、指導する器、執事や長老たちを建て上げることにもなります。さらには教会への神の賜物としての牧師、教師、宣教師等の主の器をも建て上げることにも通じる取り組みです。

 この際、再考したい教会の伝統に「主日礼拝」のあり方があります。「聖徒の建て上げ」は主日礼拝の説教、それも「受け身の説教」だけではクリスチャンが自ら考え、新たな一歩踏み出すクリスチャン人生を建て上げることには必ずしも十分とは言えないからです。牧師たちは「建て上げ」の目的、聖書の意図を再考し、人によっては「パラダイム転換」を決断する必要があるかも知れません。

2020年4月27日月曜日

解説:「C-BTEマニフェスト」基本理解1「パウロのサイクル」


C-BTEのパラダイム:アンテオケ声明書:C-BTEマニフェスト」:基本理解30

C-BTEChurch Based Theological Education)の「基本理解30」はアンテオケモデルの30の主要な考え方、すなわち、教会がどのようにして自然発生的に増え広がって行ったかについて「使徒の働き」が示している聖書のモデルに基づくものである。

 

C-BTEマニフェスト」基本理解1: 「パウロのサイクル」

教会の働きの基本は、大局的に見て望ましい町々に福音を宣べ伝え、教会を建て上げ、その教会を健全に訓練された指導者に委任していくことである。

 

解説:パウロが主の宣教命令に応えて宣教活動を始めた拠点教会「シリヤのアンテオケ教会」の始まりは実に不思議な経緯の中で誕生した。

 使徒の働き11:1922 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。

「主の宣教大命令」は12使徒たち託された。しかしエルサレム教会、ペテロをはじめ使徒たちは異邦人に向かうことに躊躇している様子が伺えます。そうした中で生まれて間もないエルサレム教会に起こった問題、給食配給の問題克服のために選ばれた「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」、いわゆる七人のヘレニストたちによって宣教は展開されました。そして世界宣教の拠点教会、シリヤのアンテオケ教会の誕生はこの人たちによる宣教の果実であったのです。彼らの大胆な宣教活動にいきり立った人物こそ、後に主の宣教大命令を実現したパウロでした。彼、サウロはナザレの一派こそユダヤの伝統を覆す輩と考え、根絶を願って迫害の先頭に立ったのです。その途上で復活の主との出会いが神の救いのご計画に対する理解を180度大転換させられることになりました。そのパウロがバルナバを介してアンテオケ教会に導かれわけです。

 主イエス・キリストのご在世当時、弟子たちに「もうひとりの助け主」聖霊が遣わされることを約束されていた(ヨハネの福音書)。復活の主は真理の御霊を介して使徒として召されたパウロに「奥義としての教会」が開示されたのです。パウロ書簡はそれを明らかにしています。

 「使徒の働き」を読んでいくとパウとが召された後、シリヤのアンテオケ教会を拠点として第一次、第二次、第三次と展開されピリピの教会、さらにエペソの教会が拠点となり、近隣の諸都市に主の群れが生まれ、支援がなされています。さらにローマ帝国の首都ローマへと宣教は広がっていきました。注目すべきはローマ16章、Ⅰコリント16章の記録にあるように宣教の広がりには多くの同労者、いわゆるフルタイムの伝道者だけでない多くの建て上げられた、委任された同労者が「主の宣教大命令」を担っていたこということです。

 つまり、「主の宣教大命令」に応えて託された教会にあって主体的な宣教戦略を構築することです。

2018年10月23日火曜日

「C-BTEマニフェスト」:基本理解30


C-BTEのパラダイム:アンテオケ声明書:C-BTEマニフェスト」:基本理解30

C-BTEChurch Based Theological Education)の「基本理解30」はアンテオケモデルの30の主要な考え方、すなわち、教会がどのようにして自然発生的に増え広がって行ったかについて「使徒の働き」が示している聖書のモデルに基づくものである。

基本理解1: 「パウロのサイクル」
教会の働きの基本は、大局的に見て望ましい町々に福音を宣べ伝え、教会を建て上げ、その教会を健全に訓練された指導者に委任していくことである。

基本理解2: 「建て上げ」
福音(パウロの「初期の手紙」)に建て上げられ、教会に委ねられた働き(パウロの「中期の手紙」)を実証し、神の家族として成熟(パウロの「後期の手紙」)していく健全な教会を建て上げる過程である。

基本理解3: 「信仰の人に委ねる」
牧師は「主の宣教大命令」という観点から「健全な教え」に教会の監督責任を委ねていける指導者の恒久的で世代間の連鎖を生み出すような、次世代指導者の育成を真剣に考える必要がある

基本理解4: 教え:ケリグマとディダケー
初期の教会がケリグマ(福音の物語)ディダケー(教え)と呼び、すべての信者が聖書の「基本原則」から注意深く建て上げられていく必要のある教えの中心、すなわち、キリストの教えの本質であり、書簡(手紙)そして最終的には「福音書」という形でキリストの使徒たちを通して教会に伝えられたものである。

基本理解5: アンテオケの伝統
「キリストとその使徒たちの手法」に則った初代教会の主要な三つの伝統の中の一つで、21世紀に全世界規模でこの伝統に戻るためのモデルとなるものである。

基本理解6: 神学教育
神学とは教会を生み出し、牧会していくために十分に整えられた牧会指導者たちを育てる作業である。と同時に性別職業年齢に関係なくすべての信者が「聖書的に考える能力を高める」ための生涯にわたる作業である。

基本理解7: 教会主体の神学教育C-BTEChurch Based Theological Education
第一義的には信仰の「基本原則」に始まる「健全な教え」を保つために必要な働きと理解される。その地区教会での生活と教会の使命と働きに深く根ざし、成長を目指す指導者と成熟を目指す信者を育て上げるために作られ本格的に秩序立てられた学びである。

基本理解8: 神学体系
西洋の組織神学ではなく聖書神学に基づき、今までのものを払拭し「使徒の教え」と「文化の中で神学する」という手法に完全に再編する必要のある古くて新しい規範(1)福音を宣べ伝える者は何を学ぶべきか(2)どのような順序で学ぶべきか、の二つを問う。

基本理解9: キリスト者教育Ⅰ:子供
地区教会共同体の中で行われる、両親の指導の下、子供たちを信仰に建て上げ、それぞれに与えられているその子ならではのライフワークと生涯にわたる学びを始められるよう企画された、本格的に秩序立てられた学びである。

基本理解10: キリスト者教育Ⅱ:成人
地区教会建て上げの中で行われる、成人したクリスチャンを信仰に建て上げ、信仰とその人自身のライフワークを完全に一致させて「際立って、顕著な、他とは異なる、普通とは違った」人生を全うできる者となるよう企画された本格的に秩序立てられた学びである。

基本理解11: 評価と認証
初代教会共同体の中で行われていた牧会と実務を行う上で人格的にも働きの面でも適格性を持ち、なおかつ今の文化の流れに即した指導者を見分け、認証していく取り組みである。

基本理解12: アンテオケ教会の伝統:教会専属神学者、教会主体の神学会議
初代教会のようなアンテオケ教会、教会専属神学者、教会会議に戻す。歴史上またとないこの時をしっかり捉え、現代西洋のパラダイムである専門職としての牧師、神学者、宣教師、神学教育機関から「脱構築」し、聖書の意図に基づいて再構築する。

基本理解13: パウロのチームとアンテオケ教会ネットワーク
パウロの宣教牧会チームとアンテオケ教会ネットワークは、全体的戦略と世代別戦略をバランスよく保ちつつ、活力ある教会運動を生み出し広げていくための中枢である。

基本理解14: 自然発生的広がり
ローマ帝国全体に自然発生的に広がった教会は人間の緻密な計画によらず、聖霊の間接的、時には直接的な指示の下、宣教の門戸を開けようと応答した使徒的指導者たちの戦略的意図によったものである。

基本理解15: 文化の中での神学 
教会の指導者や信者たちが聖書神学という規範に支えられ、生き生きとした共同体を作りながら再創造の御業として文化芸術を生み出し、真の意味で色々な必要に応える者として生活をする中で社会の価値観に影響を与える教会活動である。

基本理解16: 救済と開発・発展
危機的な状況にある地域の教会を支えている世界中の教会ネットワークがまず世界規模で必要な救済と開発・発展へ寄与しなければならない。そうすることで教会は、様々なクリスチャンNGOにこの働きを単に委託せずに、これら危機的な状況にある地域の救済と開発・発展のために、もっと幅広い社会生活基盤整備ができ、一つの共同体となれるものである。

基本理解17: 世界規模での宣教戦略
ローマ全域にユダヤ部族が離散し、ローマが世界都市となって行く状況の中で起こる文明の衝突を通して世界の秩序を作り変えるという、時世をわきまえた「パウロ的」福音宣教を実践、実現することによって福音を21世紀の世界に広めようという戦略計画である。

基本理解18: 西への戦略‐アンテオケ構想
西洋のキリスト教界が衰退し、ポストモダン的発想に立った脱キリスト教文化が台頭してきているという現実のただ中にあって、西洋諸国、その影響下にある国々はキリストと使徒の土台に根ざした新たな教会建て上げ構想、すなわち、アンテオケの伝統に根ざした宣教構想が必要である。  

基本理解19: 伝道所、教会、地域ネットワーク作り
教会は、文化としての民族の特殊性を保ちつつも注視している地域社会にキリストにあって一つ心であることを示していくようパウロの宣教チームと地区ごとの牧師のネットワークの下でケリグマとディダケーをよく理解して建て上げられていく必要がある。

基本理解20: 堅固に建て上げられ、貢献者として仕える家族
地域教会の地域への影響力の中心は、経済界、商業界、教育現場、自宅周辺地域、社会奉仕といった、その地域社会で貢献する、できる者として仕えるしっかりと建て上げられた家族である。

基本理解21: 個人の成熟‐教育・ライフワーク
地域に福音の影響力を広めていくための教会建て上げ戦略にとって主要なのは、一人一人がキリストにあって成熟し、明確な自分自身のライフワークを展開し、生涯をかけて知恵に基づく生き方を深めていけるよう助けていくことである。

基本理解22: 町の繁栄を求め、寄与・貢献する
教会が地域レベルで宣教を推進していく時の一番の関心事であり、確かな仕事をし、地域に奉仕する生き方を実践し、緊急の必要が生じた時に応えることで、教会が建てられている地域での貢献者共同体となることを求めていくことである。

基本理解23: リソースセンターとしての神学校改革
神学校はリソースセンターとして改革される必要がある。神学校は教会を主体とした神学教育を全国、世界規模で繰り広げていくという目的のためにその財産や人材を再配置し、実質的な神学教育ネットワークとなる。

基本理解24: 宣教団のネットワークとしての再構築
C-BTEパラダイムに基づく宣教団のあり方をネットワークとして再構築し、必要不可欠な宣教師をパウロのチームに再配置して教会を建て上げる働きをするアンテオケ教会に遣わし、働きを加速させる。

基本理解25: 地球規模の隣人から隣人への宣教、開拓を推進する神学に熟達する
一例として地球規模のペンテコスト主義は20世紀、21世紀の驚異であり、南半球への福音の広がりの主な原動力となっている。その中で教会建て上げが行われ、教会が神学に熟達し、実を育て、自分たちの文化全体への影響を確実なものとしていることを真剣に受け止めなければならない。

基本理解26: パラチャーチ組織-真に教会に根ざした伝道事業への再構成
パラチャーチ組織そのものを「ソダリティー・モダリティー」という考え方を持ち、パウロの宣教チームと教会ネットワークを正しく推奨する手段として真に教会主体の伝道事業に再構成する必要がある。

基本理解27: 救済と開発発展のための組織-教会活動への融合
救済と開発発展のための組織は教会活動に融合される必要がある。計画ごとに「ソダリティー(教派教団の縦型組織)・モダリティー(教派を超えた広域組織」」という考え方を持って成熟したパウロの宣教チームが教会ネットワークに資力と人材を配置し直す。

基本理解28: 各教派の伝統を再考し、改めて聖書に戻って教会建て上げ活動を目的とした再構築を志向する。  
プロテスタント各派は今までの伝統を再度、聖書に戻って再考し、改め、今の宗派の根拠となっている「宗派の伝統」ではなく「キリストとその弟子たちの手法」という初代教会のDNAを持って教会を建て上げる活動へと目的を改める必要がある。そうすることで主流派(高教会派)の伝統を持つか、福音派の伝統を持つか、ペンテコスト派の伝統を持つかといった今の肥大化した分け方にあてはめようとせずに南半球で起こっている「新しいキリスト教世界」の誕生を促進する。

基本理解29: 基盤-企業モデルではなく、いのちの交わり「教会家族共同体」
クリスチャン財団のあり方を教会家族財団へと再編する。財団の目的は教会主体の伝道計画を支えることであると同時に「パウロの宣教チーム」の一員となるように再構築する。また「企業モデル」ではなく霊の監督たちから成る均衡ある経営体制のあり方へと理解を深める。

基本理解30: 出版事業の再構築:共同経営者であり、教会ネットワークと教会を主体とした伝道事業のための出版  
書物の出版(本以外の媒体事業も同様)は教会ネットワークと教会主体の伝道事業のために行い、福音主義出版界の「市場販売戦略の加熱」から脱却し、出版業も基本的には教会ネットワークの一つであると考える。

2018年10月6日土曜日

聖書に戻って再考する聖書の意図

聖書に戻って再考することなくしてパラダイム転換の必要性を実感することはありませんし、ましてや「C-BTEパラダイム」の確かさを実感することも困難です。なぜなら、私たちはすでに2000年の歴史の中で聖書の意図とは異なるパラダイムに基づいて聖書を読み、考えキリスト信仰を形作っているからです。それが完全否定されるものではないもの、それがゆえに聖書の意図に基づいた神の家族教会共同体を建て上げていないとしたら真剣に再考すべきです。そのために啓示の書である聖書、つまり使徒時代、その初代教会に、そしてそれに続く使徒後時代に戻って再考してみることです。啓示の書、聖書に基づいて考えない限り真の意味でのパラダイム転換は実現しないからです。

 使徒時代、主の宣教大命令に応え、逡巡しながらもエルサレムからローマへと宣教が展開していきました。文字通り地理的な広がり、信じる信者の数を増していきました。そして生まれた教会に送られた書簡を見ると、教会が様々な問題を直面するごとに、使徒たちに教えられ、訓戒、励まされながら質的にも成長していった様子を読み取れます。新たに召された使徒パウロの存在とその働き、そのパウロに示された奥義としての教会は啓示の圧巻として注目させられます。

ところが意外な反応が帰って来ます。「あのパウロの宣教によって生まれた教会はどうなったのか、とりわけ小アジアの拠点であったエペソ教会とそのネットワークの諸教会は皆無だ、世界宣教の拠点になったシリアのアンテオケ教会も今はない」、「改めて聖書に戻って再考する意味、意義はどれほどあるのか」と。

 時代の変化と共に教会の変化(いわゆる「パラダイム」の変化)に注目すべきです。聖書時代、それに続く使徒後時代の教会は息つく暇なく迫害が続いたわけではありませんが、決して居心地の良い環境ではありませんでした。むしろキリスト者であるがゆえに排斥され、時には迫害を受け、命の危険にさらされていました。キリスト教会は当時のローマ帝国の公認宗教団体でもなかったのです。しかし、キリストの神の家族共同体から次の新しい共同体へと次々と広がっていったことは事実です。そしてローマ帝国が二分三分する中でコンスタンティヌス大帝がローマ帝国の再興に力を発揮しました。そして313年、コンスタンティヌス大帝はキリスト教会を公認し、保護するようになりました。それはキリスト教会の真の意味での勝利というものではありません。むしろキリスト教会に託された奥義が変質していく岐路でもあったのです。聖書の意図とは次元の異なるパラダイムへと移行していったのです。キリストの救いが何であるのか、救われた者がどのような人生を建て上げていくのか、信仰のもっとも大切な「使徒たちの教え」の部分が省略されていきます。そして典礼中心の信仰生活へと変質していきます。世俗的なキリスト信仰に対する反動として禁欲を美徳とする修道院、もっともこの時点では共同体というより個人的でしたが、この頃から生まれています。

さらに380年代には公認宗教から国教化され、制度的安定、見た目の安定がありますが、霊的、質的には大きく後退です。そして100200年、300年と続き、「中世カトリシズム」が体系化されていきます。そして起源600年代にイスラムの出現が東方教会を拡散させ、弱体化しています。その後、十字軍の派遣で多少盛り返すも、15世紀にオスマン帝国時代に東方教会の中心都市コンスタンチノープルはイスラムの重要な拠点としてイスタンブールとなりました。東方から西方に移った教会が中世カトリシズム、ヨーロッパキリスト教世界を作り上げていきます。この延長線上に16世宗教改革が起こります。その一人マルチン・ルターは救いの確かさを求めて中世カトリシズムのパラダイムに徹して追求し続けます。その最良の道が修道士になることでした。が、しかし、ますます不安と絶望感に陥ります。そうした中で聖書に向き合うように指導され、聖書の意図を再考する中で初めて信仰の何であるかを確信したのです。こうして宗教改革の二大原理、「信仰のみ、聖書のみ」が確立していきました。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモテ3:16-17)

聖書(旧約聖書)の意図を明らかにしたイエス・キリストの教え、もう一人の助け主、聖霊によって主イエス様の意図を明らかにされた使徒たちの教え、健全な教え、キリストによる基本原則が健全なクリスチャン人生を建て上げ、神の家族共同体、主の教会を建て上げることになるのです。教会も聖霊によって主イエスが啓示された神の奥義です。それ以外の教え、議論は「信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません」(Ⅰテモテ1:4)でした。

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」(Ⅱペテロ1:20-21)。
今、必要なことは聖書の意図に添った聖書の原則に基づく聖書の解釈です。