2018年7月3日火曜日

「マニラ日本語キリスト教会」C-BTEの取り組み(2)


引き続きマニラにある「マニラ日本語キリスト教会」(MJCC):https://mjcc.jimdo.com/ の取り組みを紹介します。


証し:C-BTEの学び 門馬宏明

私は、20029月に当地フィリピンの教会GCF(Greenhills Christian Fellowship)という保守バプテストの教会(規模は、メガチャーチ)で救われました。その教会では、信徒の有志に対して聖書の学びの機会を与えられ、教会のクラスで学んだり、夏休みに信徒の仲間と一緒に神学校で短期集中講義を受けたこともありました。そのような学びを通して、聖書の学びのABCは、まず組織神学だと思っていました。そのような教育を受けましたし、それが当たり前だと思っていました。聖書を学問的に分類し、神、キリスト、教会、罪、救い、人間、終末などように体系建てて勉強しました。テキストは、M.J.エリクソンのキリスト教神学をつかっていました。今考えると、この聖書の学びの目的は、何だったのだろうか。聖書に関する知識は身につきましたが、それを用いるための知恵は、その学びを通しては与えられませんでしたし、考えても見ませんでした。知識を深めることで満足しておりました。教会を建て上げ、信仰を継承していくために、教会が信徒一人ひとりを教育・訓練し育てていくなどという発想は一切なく、真剣に聖書を学びたい人は、神学校に行くのが普通だと考えていました。組織神学を勉強するということは、神学という学問としての学びであり、その学びは教会や信徒個人への適用という面がなかったように記憶しています。

 これに対し、C-BTEの教育は、地域教会生活に根ざしたものであり、組織神学を通して考える聖書の解釈とはまったく違った新しい(本来の)聖書の解釈の仕方を教えていることに気づかされました。まさに、目からうろこのような気分を味わいました。但し、実際は、C-BTEの学びに取り組み始めたころ(3年前)は、得体の知れない教材を手にし、少し半信半疑で取り組み始めたことを思い出します。特に、出だしで少し躓いた感じがありました。C-BTE の学びの一番最初は、基本原則ですが、このテキストが難解で、とっつきにくいものでした。基本原則の概念に関する聖句としてコロサイ268節が示されているのですが、それが腑に落ちるまで2年以上かかりました。テキストは、オリジナルの英語版を翻訳しているからだと思いますが、時々しっくり来ないことがありました。

前述の問題を解決したのは、201791日のC-BTEのブログです。タイトル: 鍵となる概念:「聖書の基本原則」です。この補足説明を読んで、ずっと胸につかえていたものが、ストンと落ちたようにスッキリしました。このブログが立ち上がったことには、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。このブログ、https://c-bte658.blogspot.com/  C-BTEのテキストを補完するものとしてなくてはならない、わかりやすく解説された大切なものだと思いました。このブログの内容もテキストと一緒に出版されることを祈っております。

私の場合は、シリーズを一度学び終えていますが、それを何度も何度も繰り返すことで、より確かなものとしていかなければと思っています。2回目、3回目で前に見えなかった基本原則が見えてくることがあるからです。

 さて、C-BTEを学んでよかったと思う点をまとめてみます。

聖書研究の目的が明確になった点
単に、個人の信仰を強めるだけが目的ではなく、教会を建て上げ、そして次世代に信仰を継承してくという目的意識が芽生えたこと。

聖書研究のやりかたを正すことができた
 聖書を神学者が紐解いた組織的な体系で整理して勉強していても、自分の人生が新しく変わることは難しいが、このC-BTEの基本原則シリーズにそって、聖書を勉強すると、自分の人生が神様の目的に添って変えられているような気がします。
また、聖書をどのように読むかに関して、次のようにC-BTEのテキストから確信を得ることができ喜んでおります。(以下:聖書研究の基本原則8ページから)
聖書に基本原則が存在する。基本原則は、各教会宛に書かれた書簡の中にあり、信徒は読んで見つけ出すように求められている。
教えの中心はパウロの手紙の中にあり、それを理解する鍵がルカの福音書と使徒の働き、他の書簡はこの教えを補完するものであり、他の福音書はキリストとに関する知識を補完する。

C-BTEによって変えられた自分の人生観
 教会への所属意識が強められました。今までは、とりあえず今住んでいるところにある教会で礼拝をしているだけで、時が来れば、どこにでも転会するという感覚で、今の自分の所属教会を見ていましたが、C-BTEの学びを通して、所属している教会の信徒一人一人と同じ神の家族という意識が強く芽生えました。

C-BTEによって教会が聖書的に変えられ、新しく堅固な土台の上に建てかえられ始めている
 組織や規約の変更、礼拝のプログラムなどが 新しくなり、礼拝が生き生きとしています。とくに、礼拝の中の説教(メッセージ)を問答形式の聖書の学びに変えたことは、教会と信徒一人一人の成長(礼拝に参加する姿勢)に大きな影響をもたらしたと思います。但し、問答形式の学びの進め方に関しては、まだまだ改良していかなければならない点が多々あるかなと感じています。これまで、2回リーダーの奉仕をしましたが、進め方が非常に難しいと感じました。是非一度他の教会でうまく行われている問答形式の聖書の学びを視察できたらいいなと思っています。 
 また、MJCCは、主任牧師(OMF宣教師)が英国に帰国された後、外から牧師を招聘することを試みましたが、それが実現しませんでした。そして、教会の中からリーダーを育てて行こうということで皆が一致していることも、C-BTEから受けた恵の一つだと思っています。

最後に、C-BTEが益々日本及び世界の教会で取り入れてられるように、お祈りします。

2018年6月29日金曜日

「マニラ日本語キリスト教会」取り組み

今回はマニラにある「マニラ日本語キリスト教会MJCC)https://mjcc.jimdo.com/ の取り組みを紹介したいと思います。私自身二度ほど訪問させていただき、C-BTEパラダイムはこの国のためにあるのだ、と言うことを実感させられました。はじめにMJCCの牧会上の責任を持ち、取り組まれているゲレロ馨先生の証言です。順次、取り組まれての証しを紹介します。


                                                                                       ゲレロ 馨  
   
MJCC(マニラ日本語キリスト教会) 2009年まで約20年間英国人の宣教師ジューン・グリフィス先生が牧会されたキリスト者の群れです。その20年間、主にマニラに日本の会社から派遣された駐在の家族や留学生が集う集会(JCF Japanese Christian Fellowship)でした。2-3年毎に本帰国になり、入れ替わりが多い群れでしたから、数名の永住している会員とジューン先生が教会としての存続の細い線を守ってきたました。宣教師であるジューン先生は伝道に燃え、多くの人たちがイエス・キリストに出会い日本へ帰国していきました。とても愛と配慮にあふれた婦人宣教師の牧会を通して、素直にみ言葉を読み主に聴く姿勢が備わっていたと思います。

2009年のジューン先生の退職帰国を機に、MJCCは無牧という状態がしばらく続きました。そのころは、世界の経済的不況の影響で日本の企業も駐在員を派遣する数が減っていることも重なって、ほとんどの信徒が永住者になり以前と割合が逆転していきました。信徒数名が説教を担当し他の奉仕もそれぞれの責任を自主的に果たし、なんとか礼拝と諸集会を行っていました。私も婦人の聖書の学びの会などをお手伝いはしていましたが、ある時に、MJCC一人の姉妹が末期の癌と診断され、姉妹の霊的ケアーを依頼されたのがきっかけでMJCCとだんだん深く関わることになりました。しかし、日本から宣教師としてフィリピンに遣わされた8年後にフィリピン人の夫と出会い、結婚後も立場は違っても奉仕の場はほとんどフィリピン人の関わりであったことから日本人の教会で奉仕することは一時的だと考えていました。また、すでに主任牧師を求めて信徒たちは祈っていました。主任牧師が与えられたら、その時には私も以前の働きに戻ろうと考えていました。

そしてついに日本の教会を退職された牧師夫妻が来てくださることになりました。それが、2012年でした。しかしながら、体調を崩され2013年には辞職し帰国されることになってしまったのです。この道が閉ざされてしまったことで、これからどうするか、仕切り直して皆さんと主に求めることになりました。その結果、指導者を養成する必要を確認し、次の年に主に導かれた数人の方々が通信で聖書を学び訓練を受けるということになりました。通信教育があるいくつかの聖書学院、神学校の中で、これだというプログラムを役員会で確認して、学校にも問い合わせ、一時帰国した兄弟も学校を訪問し、次年度に始める準備をしていました。そして、20142月に願書を出そうとした時に、なんとその通信教育プログラムが廃止されたことが判明したのです。その時に、なぜ、と本当に困惑しました。牧師招聘も閉ざされ、通信教育の道も閉ざされ、主にMJCCはどのように進んで行ったらいいのでしょうか、と問いかけながら、その一週間を過ごしました。もう一度、神学校のホームページを検索していきました。けれども、通信講座があってもふさわしいプログラムはなかなか見つからず、半分諦めていたような時に仙台バプテスト神学校のC-BTEのサイトが目に留まり、その内容を読んでみました。読んでいるうちに、主がこの学びをMJCCに導かれているという思いが沸きあふれてきて、その時、実は十分な理解はできていなかったのですが、早速、MJCCの役員に、紹介しました。C-BTEに出会うために、すべての門が閉ざされたのではないか、という思いも与えられたのです。それは、とても不思議でした。しかし、その内容をもっと詳しく知るために基本原則の本を取り寄せて読んでも、誰もよく把握できませんでした。テキストを取り寄せる際にメールで交信している中、仙台バプテスト神学校校長にの森谷師ご自身が自ら直接紹介できる機会があればいいのですが、という内容があるメールをいただき、役員ともども図々しいとは思ったのですが、マニラに来ていただくことを打診したところ快く承諾してくださったのです。そして森谷先生ご夫妻を7月にお迎えし、C-BTEのパラダイムと基本原則シリーズについての概要を説明していただきました。

ほとんどの教会員が参加したのですが、森谷先生には申し訳なかったのですが、多分、90%の参加者は理解できなかったと思います。また、私を含む10%は一応理解はしたが、何か平衡感覚を失ってしまうような感じを受けました。今までの聖書、教会、信仰者の歩みについての理解が振られ、揺り動かされたような気持と同時に、これは何か良い変革をMJCCに起こしてくれるという期待が一緒にあったことを覚えています。

よくわからないまま、この基本原則を理解していけるのだろうかという不安がなかったわけではありません。けれども、一緒にやっていこうという思いは一致していました。祈って求めた結果、C-BTEに導かれたという確信は動かず、主にすべてを委ねて出発することになりました。最初は月一回有志が小グループで学び始めましたが、予習をしてくる人としていない人がいること、参加出来る人が毎回違うことなどが理由で学びの成果はあがらず、集中できずにいました。数か月間、進んで行けないジレンマもありました。これからどうするか、と知恵を求め始めました。MJCCは礼拝集会をしている場所から、バラバラに住んでいるメンバーから構成されており、地域教会とは呼べないような教会です。それは、この首都圏、人口1千3百万人の中に日本人が2万人しかおらず、MJCCだけが日本語で礼拝を守っている教会ということも大きな要因です。(他の2,3のマニラ近郊の教会は日比、すなわち、日本語と英語もしくはピリピノ語での礼拝で、日本人フィリピン人が半々の群れです。また規模も小さいです。)中心的なメンバーの住居は、南、南東、北50kmと離れています。一緒に集まれるのは日曜日しかありません。礼拝後にはいろいろな奉仕の会も週ごとに予定されて月一回が限度でした。そこで、「文明の利器」であるインターネットの会議アプリを使って週日に一緒に学ぶことを考えてみました。そして、4人の兄弟と3人の姉妹がこの学びに参加することを約束してくれたのです。

フィリピンはアジアではインターネットが一番整備されていない国だという悪評があります。ですから、時々不通になったり、雑音が入ったりというような障害があったにもかかわらず、2年間、ほとんど休まず、週ごとに私を含む8人で基本原則シリーズの学びを完了することができました。また、共にした学びが楽しく、このような一致した思いは、御聖霊の助けと導きがなくてはできなかったことです。主日礼拝では説教の替わりに、基本原則シリーズから教えることになり、この学びに参加していないメンバーにも浸透するように心がけました。

基本原則シリーズを学んでから2か月過ぎたころには、参加メンバーの教会に対する思いがすっかり変わっていきました。また、家族や夫婦の関係についても主の思いを理解し違う見方が与えられ、家族への思いが変えられてきました。聖書のすばらしさに心がぐいぐい惹かれていったことも事実です。そして、いつのまにか、教会自体に変化が現れてきました。MJCCは日本の教会に比べると、フィリピンの陽気さの影響を受けてか、以前から明るい雰囲気がある教会ではあったのですが、この学びを始めてから、主にある一致や主が求めておられる宣教に対しての思いが強くなり、お互いの重荷を一緒に負っていこうという積極的な愛の姿勢が見られ、神の家族としての絆が太くなってきました。また、新しく英語教室や母親読書教室など、外への働きも与えられてきました。

2017年6月に、森谷先生ご夫妻に再びマニラに来ていただいて私たちの取り組みの確認をしてもらいました。今度は基本原則シリーズの学びを理解した後での先生からの講義と交わりを通して、更に教会を建て上げるための必要な学びと励ましをいただきました。その中から一つ試みることになったのが、問答式, 参加型の聖書の学びを礼拝で取り入れることでした。

その時間を「バイブルタイム」と読んでいますが、週のはじめに箇所と質問がメールで礼拝出席者に配信され、予習をして礼拝に臨みます。リーダーは、基本原則シリーズを終了した8人が順番に担当しています。ある兄弟は、クリスチャンホームで生まれ育ち、受洗してから20数年経っていますが、はじめて真剣に聖書を読み主から多くのことを教えられていると証してくれました。また、基本原則シリーズは、完了した兄弟姉妹によって新しく教会に加わった方たちや関心のある方たちに学びが提供されています。MJCCに関わっている方たちにはできる限り学んでいただくという方針で継続されています。

また、マニラ日本語キリスト教会としてフィリピンの国で宗教法人登録を行ってから、20年以上投票して毎年役員を決めていたのですが、来年度から、複数の長老を任命して、教会の監督として群れを率いてもらうように導かれています。そのために、候補となっている兄弟たちが、必要な学びをし、教会の奉仕の働きを整えれるように今準備をしています。それは、やはり、基本原則シリーズの学びを通して、教会が一人の牧会者だけに頼るということから、“卒業”して長老たちが教会を守り、導くことが重要であることを確信させられたからです。

これからも、MJCCは学びを続けて主の教会が建て上げられるように祈りながら歩んでいけるようにと努めます。主がこのC-BTEに出会いを与えてくださったことを感謝し、また、C-BTEの取り組みが日本の教会でも豊かに大きく用いられるようにも祈り続けていきます。

クリスチャンホームで育ち、日本、フィリピンで多くの教会とのかかわりの中で歩んできたのですが、このような素晴らしい出会いに喜びを持つとともに、もっと早く出会っていたなら、という少し残念な思いもあります。いろいろな問題点に聖書的に解決の糸口があることを教えてくれたはずでした。フィリピンの教会にも何らかの形でこのC-BTEの概念を紹介できればという思いも抱きながら、拙い証を終えさせていただきます。

2018年4月17日火曜日

教会主体の次世代育成における客観的評価


C-BTEパラダイムの核心とも言える「教会主体」での次世代牧師養成は本当に可能なのだろうか、と疑問視する牧師たちもすくなくありません。とりわけ一教会、一牧師の現実を考えると踏み出せない気持ちはよく分かります。仮に取り組めたとしても、各教会が「この者は牧師だ」と認証する確かさを担保するものは何か、と問われます。むしろ、牧師である基準が曖昧なまま広がっていかないか、との問題提起です。

聖書の示す原則: 啓示の書である聖書はクリスチャンの成熟に至る道筋だけでなく、指導者育成においても完璧な原則を与えています。「パウロとテモテの手法」がそれです。それゆえ聖書時代の次世代指導者として信任される成熟に対する評価基準は使徒たちによる初期、中期、後期の各書簡から読み取ることができます。『基本原則を教える』指導者の手引き書の後尾に付録として記載されています(別紙参照)。これら規準は12年の集中の講義によって完成するものではありません。すなわち、キリストによる福音理解の確かさ、そして福音に基づく「良いわざ」としての生き方、宣教の使命を実現する生き方の確立、すなわち人格の成熟度、隣人関係、額に汗する働き、さらに家族の建て上げ、地域に貢献する仕事、そして次世代クリスチャン建て上げに関わることなどが上げられます。牧師は個々の聖徒たちを福音に基づく生き方へと建て上げる責務が与えられています。この点が基本中の基本で、納得できない牧師はだれもいないはずです。ただこれらは説教だけでは果たし得ない大切は役割でもありますので、牧師によっては再考すべきことがあるかも知れません。

特に指導者としての賜物はクリスチャンとしての成長の段階過程で、つまり実践的な取り組み「委任」によってその賜物が実証されていきます。小グループ、また家族のリーダーとして、さらにリーダーを建て上げるリーダーとして委任され実践的に経験を積み重ねていきます。そして地区教会の牧会者、さらには牧師を建て上げる指導者として教会に託された宣教使命を実現してきます。文字通り「教会主体の神学教育・指導者育成」のパラダイムです。

ポートフォリオ(portfolio): その上で「C-BTE」取り組みの特色である「教会主体」、「学習者主体」の学びと訓練を可能にする、確かなものとして用いている客観的評価の手法が「ポートフォリオ」なのです。「フォリオ」は「集めたもの」、学びや訓練の過程において学習者の成果、および他者の評価を集積したもの、「ポート」は基本的に「紹介する」つまり、決められた期間内での達成(評価の集積)を公に示すものです。すでに一般的な教育の世界でも用いられるようになっている「ポートフォリオ」はC-BTEにおける教育・訓練における客観的評価として優れた手法です。

「ポートフォリオ」による評価は学習者自身の実績を記録し、自己評価技能を高め、その人の得た知識や技能を目に見える形にする実行可能な方法です。また学習者自身も学習課題に対する応分の評価責任を持ち、学習者の実績を記録し、その人の得た知識や技能、実績を目に見える形にする実行可能な評価方法と言えます。今までのように当該学習課題の取り組みがすべて終わった後にではなく、学習の期間中、初めからずっとデーターが集積され、評価がなされる仕組みです。

C-BTE「アンテオケスクールプログラム」においては次世代の指導者としての資質、能力の客観的評価は学習者自身の「ポートフォリオ」作成に基づきます。聖書の核心的理解、人格的成熟度、生き方(含:仕事)の確立、宣教や牧会に関わる実際的な経験、また宣教戦略の作成、知的、実際的学習履歴の証明等々、牧師としての指導の賜物を証明するものに焦点を当て作成します。

生涯教育の実現: 学習者自身の学びの過程を知るだけでなく、学習者に関わっている他の人たちも学んだことに、さらにどのように積み上げていったらよいかという発展的な視野を持つことができます。さらに内省という点から見た「ポートフォリオ」は単に個別の変化やそれが持つ意味を検証するといったことに留まらず、生涯にわたる学習者の人間性や専門性の深まりを示すものとなります。その意味で「ポートフォリオ」は特別な教育プログラムという枠を超えて広がる可能性があります。

奥義としての教会: 「信仰による神の救いのご計画の実現」としの教会理解、奥義である教会での関わりでクリスチャン人生設計を描き、自らの家庭の建て上げ、教会内外に通じる、貢献できる「生き方」を確立します。それ自体が主の宣教大命令を実現すると共に、所属する神の家族教会の建て上げに直結し、その延長線上に次世代の指導者としての賜物を確立します。教会主体の指導者育成は「信仰による神の救いのご計画に実現」である奥義としての教会、いのちの交わりとしての神の家族教会を建て上げる、この交わりの中でこそ神の意図する人格を建て上げる最良の場であると言うことです。

 そうした教会主体を可能にする基本的なリソース、核心的な学びとして「基本原則シリーズ」や「リーダーシップシリーズ」、また「共同体における生き方の管理:人生開発プログラム」、さらに「パラダイム論文」等が出版されています。神学校はそうした教会の主体的取り組みを必要に応じてサポートします。その一環としてC-BTEカフェにおけるワークショップ、またCBTEセミナー等があります。

2018年3月24日土曜日

C-BTEの恵み

同盟福音岐阜キリスト教会 牧師 川村真示

リバーサイド聖書塾(C-BTE)の始まり
 宣教50周年を機に、CBTEのカリキュラムを取り入れた「リバーサイド聖書塾」を開講しました。リバーサイドとは、宣教50周年の時につけられた、教会の愛称「岐阜リバーサイドチャーチ」にちなんでいます。

*聖書塾の詳細について www.gifu-riverside.com/seminary/

現在の様子
 2〜5人の少人数グループでの学びを基本とし、隔週(月2回)一回2時間で行なっています。受講者が、最後まで学びきるモチベーションのために、テキスト代プラスアルファの受講料を前払いで頂いています(1シリーズ1万円、学び切ったら2千円ペイバック)。収益はCBTEの献金にあてられています。月2回のペースで行うと、基本原則シリーズ3の最後まで、約3年半かかります。2018年3月に至るまで、5名の卒業生が与えられました(第1期生3名、第2期生2名、やむを得ない理由で途中終了された方が3名)。現在は、第3期生が5名学んでいます。みんな大変喜んで学んでいます。

牧師の変化
 おそらく一番恵みを受けているのは牧師なのではないでしょうか。最初は全てが手探りでした。仙台バプテスト神学校から地理的に遠く、近くでC-BTEをやっている教会もなかったので、誰にも何も聞けずにいました。しかし、主に助けを求めながら、回を重ねる中で、徐々にCBTEパラダイムの全体像が見えてきて、私自身の教会観が取り扱われ、気づいた時には以前とはガラッと変えられていました。特に、「家族の建て上げ」と「教会の建て上げ」が一つの線で結ばれ、「家族の家族としての教会形成」すなわち「家庭を中心とした教会形成」へと自然に導かれていきました。ただ、実際にそれをどのように形にしていったらいいのかに関しては、まだまだ知恵に欠けていました。

教会の変化
 私たちの教会では、1963年から50年以上各会(壮年会や婦人会、青年会や学生会など)の交わりを続けてきました。また2009年からはスモールグループも取り入れていました。しかし各会は、新しい方々や若い人が加わりにくく、スモールグループも信徒の交わりとしては機能していたもの、宣教的な面では課題が残っていました。何かを改革しなければいけないと感じつつ、何を、どこから、どのように改革したらいいのか具体策が見えてこず、行き詰まりを感じていました。

 そんな時、2016年10月11日から16日まで、国際家の教会ミニストリー主催の「教職者対象の家の教会セミナー」に参加しました。そのセミナーに参加して、家庭を中心とした宣教的な交わりの姿を見たとき、それまで学んできたCBTEのパラダイムとピッタリ重なり、「これだ!これが本当に、CBTEを通して変わりたと思っていた姿だ」と感じました。そして早速準備に取り掛かり、教会の中でも説明を始め、次の年の教会教会にて一つの提案をしました。

スモールファミリーと家の教会の始まり
 2017年の教会総会で、それまでの各会の廃止を提案しました。そして新たに、月1回の、それぞれの家庭に集まる、信徒主導の、宣教を目的とした「スモールファミリー」を提案しました。総会は激しい議論となりましたが、結果的に皆様も受け入れてくださいました。さらに2018年4月からは、スモールファミリーを毎週行う「家の教会」も始まろうとしています。特に感謝なのは、そのリーダー(信徒牧者)として、聖書塾(CBTE)の塾生や卒業生が用いられ始めていることです。(スモールグループのほとんどは、自然な形でスモールファミリーに統合されていきました。)

*スモールファミリーの詳細について www.gifu-riverside.com/smallfamily/

信徒の変化
 私は最初から、あえて、「教会役員は聖書塾(CBTE)を受講してください」とか「スモールグループのリーダーは聖書塾を卒業した方に限ります」など条件をつけたりしませんでした。あくまで、学びたい志を与えられた人を対象に開講してきました。それがどのような実を結ぶかは、当初まったくわかりませんでしたが、このスモールファミリーを始める中で、聖書塾(CBTE)の卒業生たちが「私たちはこのために学んだのですね」と口々に言い始めたのです!その言葉を聞いたときは、本当に感動しました。聖書の御言葉が、確かに彼らの中に根付き、気がつけば実を結び始めていたのです。

 
これからも、何が起こるかはわかりませんが、主の御言葉に真剣に取り組み、基本原則に生き、御霊に導かれながら、キリストの体である教会を、愛する兄弟姉妹とともに建て上げて行きたいと思います。長くなりましたが、以上をもちまして、CBTEの取り組みの証しとさせて頂きます。

2018年2月20日火曜日

C-BTEワークショップ:「C-BTEカフェ」

数年前から「対話・問答」を中心としたC-BTEワークショップの一つC-BTE カフェ」を開催しています。原則として奇数月の第三週の木、金の二日間です。詳細の日程については本校のホームページで更新していますので確認してください。

C-BTE カフェ」という名称についてですが、カフェは今でも個々人のくつろぎの場として親しまれている場所です。青春時代、集中して読書ができる場として利用していた頃の懐かしい思い出がよみがえってきます。興味深いことに西欧での「カフェ」は遠き時代から個々人のくつろぎの場としてだけでなく、政治家、思想家、あるいは芸術家たちが共に集まっては議論したり、意見交換をしたりと実に刺激的な思考の場、知恵を得る場でもあったと言ういわれがあります。そういう意味では、「カフェ」はC-BTE パラダイムにとってもとても親和性のある名称です。

今日的問題意識の中で、かつ自分たちの置かれた文化の中で教会の使命である主の宣教大命令にどのように応えていけるか、持続可能な教会を建て上げ、そして確かな次世代リーダーを建て上げていけるか、こうした視点からC-BTEパラダイムに関心を持ち、取り組んでみようという方、大歓迎です。またすでに取り組んでいる方々が実際に当面する課題や疑問点を持ち寄って、聖書の原則をどのように展開していくことができるか、宣教戦略を描けるか、その確かさを確証するためにC-BTEパラダイムに基づいて共に「対話・問答」を行います。聖書の意図を明確にし、同時にそれぞれの文化の中で、この時代にふさわしい実践的プロジェクトを見出させるように問答を深めます。このような「対話・問答」に取り組みながら聖書の意図に基づき実践的な知恵を得ることを願って「C-BTE カフェ」と称しています。この日本の文化の中でC-BTE のパラダイムの確かさをいかに実証することができるかを共に考えることができればと思います。

C-BTEパラダイムに基づく教会建て上げに関心のある方々、またすでに取り組み始めている各教会のリーダー(牧師、信徒を問わず)たちが主役のワークショップでもあります。特にC-BTE のパラダイムは一貫した聖書神学もさることながら、手法において「対話・問答」方式を大切にしています。「対話・問答」は単なる手法に留まらず、聖書解釈 において重要な手法でもあるからです。つまり、聖書の原則を明確に、実際の場での諸問題を明確にして「対話・問答」することで、自ら聖書的に明確、かつ健全に考える能力を磨きます。結果的に教会共同体の中で堅実に考えるクリスチャンたちを建て上げることにつながります。神の家族教会が聖書の原則に基づき、聖書の意図を実践的に考え、しっかりと判断して信仰による一歩を踏み出すことができるようにすることです。

当面、仙台のリソースセンターである神学校を「C-BTEカフェ」の場としてオープンしていますが、最大の眼目は各地区ごとにC-BTEカフェ」が自然発生的にオープンできるようになることです。そのようにして実質のある「C-BTEネットワーク」が実現していけたらと思い描いています。「ぜひ、私たちのところでも」と希望される方がありましたら、本校の事務局に遠慮なく声がけしていただければと思います。 

2018年1月30日火曜日

「ハビタスプロセス」-知恵を得る過程-(2)

ハビタスの手法:第一段階 :「神学的識別力」を発達させる

聖書の「基本原則」を理解し、聖書的に考える力を育成するということです。この点に関してJ.I パッカーの提言、その論点を参考までに紹介します。
「今日の大きな必要の一つは大人のための体系的なキリストの教え-教義的な教え-を復活することである。名称はどうでもいいし、昔のプロテスタント系の人達が自分の子供たちを教えたような、今ある杓子定規的なドリル形式にする必要もない。どのような方法かで、キリスト教の神髄を知りたいという教会内外の人たちにそのための機会が与えられる必要がある。なぜなら、これをどうしても必要としている人たちが非常に多くいるからである。そのような人達にとって説教は助けにならないことが多い。というのも説教は、話す側にも聞く側にも信仰の基本に対する明確な確信があるとの前提に立ってのものだからである。それが無い場合、説教は自分には関係のないもの、時には不快なものとさえ感じられてしまう。未確認の憶測としか写らないからである。しかし、キリスト教の知的な初歩(基本原則)を調べ、挑戦し、試し、見極めるのに最適な場所は講壇ではなく、教理問答方式のような体系的な教えにあるのである。少なくとも教会史はそれを示唆している(Growing in Christ)

聖書の「基本原則」: 「基本原則」は基礎的な教えに関する聖書のことばで、最適なものの一つが新約聖書に出てくる「基本原則:στοιχεια」という表現です(コロサイ2:8「幼稚な教え」)。ただし、残念ながら日本語訳聖書では適切な訳語になっていません。おそらく聖書には「基本原則」があるという聖書神学の成果を読み取っていない、ないし理解がないゆえであろうと思われます。ただし、新改訳のガラテヤ人への手紙4章での訳語「幼稚な教え」について、訳者は脚注に「原理」という別訳を記しています。標準的な英語訳では明確に「基本原則」となっています。原則であれば善悪の問題ではく、考え方の原理ですので、私たちキリスト者はこの世の哲学に基づいてではなく、キリストの原則に基づいて考えるというのは必然であると思います。
信仰の初歩の原則はより深い事、つまり成熟へと進んでいく前にどうしても十分に習得する必要があるのです。この原則は新約聖書の書簡の中に明確に教えられているケリュグマ(キリストの福音)とディダケー(福音に基づく教え)、キリストの福音と福音に基づく教えです。「基本原則」は信者が大人として理性的に考える、かつ聖書的に考える能力を発展させます。これはHans Gadamarが「解釈学的に訓練された判断」と呼ばれているものであると言われています。つまり、聖書を正確に解釈し、それを生活と仕事のすべての領域で適切に適用する能力なのです。

段階1の学習内容: 以下の各冊-基本原則シリーズ-は教育的にも神学的にも非常に慎重に配慮されて作られており、信者が信仰の基本原則に基づく生活ができるように、徹底した基礎を築けるよう非常に慎重に配慮されて作られています。この非常に重要な13冊は最短18週で学ぶことができます。

聖書の基本原則:6週間の学びからなる13
シリーズⅠ:神の家族教会共同体
①主の弟子となる
  信仰の基本原則
②家族の家族に属する
    共同体生活の基本原則
③教会の使命に参加する
  共同体の目的の基本原則
④心の習慣を養う
  律された生活の基本原則

シリーズⅡ:次世代、三世代、四世代に継承する家族
①関係を楽しむ
結婚の基本原則
②信仰を継承する
家族生活の基本原則
③実りあるライフワークを展望する
  宣教の基本原則
④次世代を築く
  真の成功の基本原則

シリーズⅢ:聖書神学、解釈の方法
①確信を持ってみことばを用いる
聖書研究の基本原則
②大宣教命令を展開する
  使徒の働きに見る基本原則
③福音に固く立つ
  テサロニケ人への手紙第一、第二、に見る基本原則
④教会に対する神のビジョンを理解する
エペソ人への手紙に見る基本原則
⑤神の家で生きる
  牧会書簡に見る基本原則

ハビタスの手法:第二段階 「ハビタス」発展させる

  生涯に渡り知恵を追求するための基礎を育成することです。一生涯に渡る知恵の追求の要となる基礎、信仰に成熟する為の一つが知恵に裏打ちされた人生の方向性に発展させていくことです(参照: 箴言21-9、詩篇9010-17)。神は私たちに知恵書、すなわち箴言、伝道者の書、雅歌の中で非常に豊かな基礎を与えています。知恵書は「自分の日を数え」、熟達した人生を生きようとする時、私たちを導いてくれるものです。
私どもが提携するC-BTEパラダイム国際的なネットワークのリソースセンターであるビルド インターナショナルのリソースで学んだ七つの優先事項について紹介します。コヴィーの『7つの習慣最優先事項』が参考になっています。

七つの優先事項:
第一の優先事項:理由の認識
あなたはなぜ、存在するのかを理解する:あなたの目的

第二の優先事項: 経験の評価 
あなたはどこにいるのか判断する:あなたの物語

第三の優先事項:あなたが唯一無二であることの確認  
あなたは何者であるかを理解する:あなたの能力

第四の優先事項:アイデンティティーの定義
あなたのふさわしい居場所がどこかを決定する:あなたの役割と責任

第五の優先事項:持っているものを最大限に生かす
あなたが持っているものを活用する:あなたの教育、機会、四世代に渡る知恵、ライフワーク

第六の優先事項:優先順位の統合
あなたがどこに向かっているかを知る:あなたの人生設計

第七の優先事項:知恵の獲得
あなたが計画したように生きる:あなたの生涯学習の習慣

七つの優先システムのうち、第七の優先事項は、私たちに個人的な生涯学習のシステムをどのように設計するのかを教えてくれます。それは最新の文献等に触れ続ける方法、インターネットから鍵となる情報を得る方法、読書計画を構築する方法、そしてこれらのすべてをあなたの人生に統合する方法、つまり知恵に変える方法を含んでいます。本質的に七つの優先事項は、一生涯かけて知恵を追求するためのあなたの戦略となるものです。この課のワークシートは、第七の優先事項、生涯開発ポートフォリオの第七の優先の課に移すことができます。「共同体における生き方の管理」:人生開発プログラム

ハビタスの手法:第三段階

 共同体の中で「神学」する  信仰の基本原則を学び、知恵に基づいた魂の方向性を発展させた次に重要なのは信仰の共同体(いのちの交わり)と共に生涯に渡る知恵の追求を始めることです。私たちが求める神学は神の家族教会中心でなければならないということです。ある意味、信仰の共同体全体が神の全計画の内に成長する、日々の生活にその真理を適用していく必要があるのです。

「ハビタスの手法」は神の再創造の御業としての神の家族教会共同体の建て上げにおいて見落としてならない神の手法、聖書の手法なのです。

2017年12月6日水曜日

「ハビタスプロセス」-知恵を得る過程-

「ハビタスプロセス」-知恵を得る過程-

はじめに: 神学教育のパラダイム転換、C-BTE「教会主体の神学教育」について共に考えていますが、その後の取り組みはいかがでしょうか。とりわけ聖書の啓示の展開におけるキリストの受肉、そして十字架の死と復活、昇天の後、主は再び聖霊を通して啓示されたのが奥義としての神の家族教会共同体、これこそが神の救いのご計画のハイライト、圧巻と言っても過言ではありません。ケリュグマ、ディダケー、福音と福音に基づく教えに建て上げられる神の民、教会の存在です。
今回は教会建て上げにおける神学教育の手法の一つ「ハビタスプロセス」-知恵を得る過程-について紹介したいと思います。これはビルド・インターナショナルとランコープ・リソースの資料(「基本原則シリーズ」等々)を用いてどのように順序立て聖書の知恵を生涯にわたり追求するかの手法でもあります。つまり、「ハビタスプロセス」は地区教会が会員を教育、訓練し、その生涯に渡る聖書の知恵の追求を手助けするために順序立てられ、体系づけられた聖徒建て上げプランを提供するために創られました。

「ハビタス(ラテン語 habitus ):習慣」の主要概念: 「ハビタスとは習慣とすることや実践することで得られる完成、あるいはぶれない状態、情況を言う」。つまり、人間が理性と思考の追求を通して手に入れた性質ないし気質を意味します。神学的視点から言えば、神の知識と知恵を追求することで手に入れた習慣がその人の内性、気質、振る舞い、つまり聖書の言う「心構え」(ピリピ2:5)となるということです。聖書自体の証言として明確に、信者一人一人が神のことばを真剣に学ぶ者であり、人生のすべての場面で聖書的に考えることを学ばなければならない、という命令が与えられています。
しかし、ハビタスとしての神学、「日々聖書から神についてより深く学ぶこと、すなわち、いかに魂を正しく導くかという知恵を得るはずの神学(聖書、聖書原語、重要な文献の学び等を通して)、またどのような状況にある人にとっても必要な学びであるにもかかわらず、牧師などの専門職の備えのための学問的な学びに置き換えられてしまっている」と指摘されています。(参照:Developed by Edward Farley in Theologia: The Unity and Fragmentation of Theological Education
現代の西洋文明の中で私たちは魂の方向性の原則を、学問的知識を得る目的と捉え、専門的な働きをする知的学問の追究に傾斜してしまったというわけです。結果として、今日のクリスチャン教育が個々人の生涯の発展的な学習であるにもかかわらず、各世代、分断された統一のない教育になっているのが現状ではないでしょうか。こうした核心的な問題点を自覚し、真摯に聖書に戻って再考するハビタスのプロセスは各個教会共同体での生活、いのちの交わりの中でなされる神学教育の聖書的原則をもう一度確立する方法を提供していることに注目していただきたいのです。近年では一般教育の世界ですでに「考える」教育に大きく移行していることが注目されます。

「ハビタスの手法」:すべての信者がたどる三つの段階
段階1: 聖書の「基本原則」を理解し聖書的に考える力の育成
段階2: 生涯に渡って知恵を追求するための基礎の育成
段階3: 生涯に渡って聖書に精通するための追求

各段階とも資料を順序立てて学ぶようになっていますが、聖書の主要な概念に精通するだけでなく魂の本性(傾向)を得るものとなっています。

「ハビタス」:根拠 はっきりと聖書の中には信者一人一人が神のことばを真剣に学ぶ者であり、人生の全ての場面で聖書的に考えることを学ばなければならないという命令が与えられています。しかし現代の西洋文明の中で私たちは魂の方向性の原則を学問的知識を得る目的と捉え、専門的な働きをする知的学問の追究をしてきました。ハビタスのプロセスは聖書的原則をもう一度確立する方法を提供します。つまり地区教会共同体の生活、人との関わりの中での神学教育です。

「ハビタス」:歴史 教会史を見ると聖書を真剣に学ぶ事が常に要求されてきていました。初代教会では信条(doctrinal statements: 教義声明文)とディダケー(teaching manual: 教えの手引き書)は必須知識でした。宗教改革以降はconfession: 告白(advanced creeds: 高等信条)とカテキズム(advanced didaches高等ディダケー)が順序立てられた学び方の一つでした。教会が繁栄した時、それは神の民が真剣に聖書を学び、聖書的に考えた時でした。とりわけ旧約聖書が書かれたヘブル語の知恵(hm'k.xhokmah)はハビタスの実際的な定義を的確に説明しています。ホクマー「知恵」は文字通りには「生きるうえでの技能」という意味で、精神的技能(聖書的に考える能力)と生活技能(正しく人生の選択をする能力)の両者の開発、発展を意味しています。私たちの文化の中でも「習慣は第二の天性」という表現が用いられますが、ハビタスとは人種、職業、性別等に関係なくすべての人間が一生涯に渡って身につけなければない魂の方向性と言い得ると思います。

「ハビタス」:意味 「ハビタス」はラテン語で、英語の「習慣」という言葉にあたります。そこから学びの習慣という概念が思い浮かびます。ローマ人はハビタスを哲学的に用い「習慣とすることや実践することで得られる完成した、あるいはぶれない状態ないし状況」であると記しています。つまり人間が理性と思考の追求を通して手に入れた性質ないし気質を意味しました。神学的に言うと、神の知識と知恵を追求することで手に入れた習慣がその人の内性、気質、振る舞いとなるということです。

「ハビタス」の実際的定義:生涯知恵を追い求めるための心の方向性
旧約聖書が書かれたヘブル語の知恵(hokmah)はハビタスの実際的な定義を見事に説明してくれています。Hokumaは文字通りには「生きるうえでの技能」という意味で、精神的技能(聖書的に考える能力)と生活技能(正しく人生の選択をする能力)の双方の発展を意味します。下の二つの聖書箇所はそのことを非常に顕著に記しています。

子どもらよ。父の訓戒に聞き従い、悟りを得るように心がけよ。
私は良い教訓をあなたがたに授けるからだ。私のおしえを捨ててはならない。
私が、私の父には、子であり、私の母にとっては、おとなしいひとり子であったとき、父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。箴言4:1~9

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。
帰って来てください。【主】よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。詩篇90:1017 

 箴言をみると著者は若い人たちに、生涯に渡って知恵を、神からしか得られない知恵を追い求めるよう、しかもそれを人生の主要な目的とするよう勧めています。詩篇では、モーセは私たちに、すべての人が知恵の心を神に向け自分の日、70年か長くても80年を数える必要に気づくように言っています。心(そして命)も聖書が示す技能をいただいて生きる、まさにそうした時のみ。モーセが言っているように、神は私たちの手の業を確かなもの(永遠なもの)とされ、神の慈愛(美しさと麗しさ)は私たちの日々の生活の上にあるのです。残念ながら、ほとんどの信者はこの技能を高めようとしません。
例えば、雅歌は神の示す成熟した美しいロマンチックな愛と結婚を描いて見せてくれています。しかしほとんどの信者は雅歌をそのような本であると見なすことも、ましてやその概念を見つけることも難しく、結果的に自分たちの思春期を迎えた子供達に伝えていくこともできないでいます。(続く)