2017年10月31日火曜日

地域に貢献する教会(4)

お金について(2)

前回、神の再創造の御業として教会は地域の繁栄のために、教会内外において貢献する共同体であること、そのために「お金」、富は貢献する資源の一つとして大切なものであることを確認しました。それだけに建て上げられるクリスチャンは自分に与えられた能力を最大限生かして額に汗する労働、かつ創造的に収入を得る働き考えるべきであることについて考えました。それだけに聖書の意図をしっかり捉える必要があります。

Ⅰテモテ6:8-10: 衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

Ⅰテモテ6:17-19: この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。

これらのみことばから推論できる原則、富に関する6つの主要概念を確認できます。
 1、富める者は、物惜しみすべきでない、
 2、富める者は、自分の富を楽しむ自由を持つ、
 3、富のゆえに、人生の本質を見失う可能性がある、
 4、富を永遠のために投資することもできる、
 5、富のゆえに、悪の支配に委ねる人生を送る可能性がある、
 6、富は、福音に基づく「良いわざ」を行う一つの手段として与えられている。

教会が誕生して間もない頃、バルナバのように捧げものはとてつもなく高額になることありました(使徒4:32-35)。持てる者ではありますが、助けを必要としている主にある兄弟姉妹に対する真実な愛に基づくものでした。つまり、献げ物は高額になることも常に想定すべきであること、必要に応じてはその年の収入をはるかに超える捧げものになることもあると言うことです。この文脈で登場するアナニヤ、サッピラ夫妻のように(使徒5:1-5)、人々の関心、人々の評価を得ようとする見せかけの献金は福音進展にとって重大な妨げとなるし、神はそれを決して許容されない、ということを示しています。とかく神の家族の中で「多くの献金をする人は信仰共同体の中で重要な人物である」という誤った認識を持ってしまいやすいことへの警告です。

むしろピリビの教会に習うべきです。

 ピリピ1:4-62:25: 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。

 ピリピ4:10-14: 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。

 ピリピ4:15-20: ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

1、主の宣教大命令に応え、福音進展への参加はすべての教会の基本の基本です。
つまり、教会を建て上げることに労する人々のため、人と資金を長期にわたって投資することも意味しています。これは目先の教勢拡大にあるのではなく、神の再創造の御業として神の家族、教会共同体の建て上げとその広がりにあります。その共同体は地域の繁栄に寄与・貢献する共同体です。

2、主にある投資は大きな喜びを与えます。
実際の奉仕の働き以上に、心から捧げる人に、投資する者に大きな喜びを与えてくれます。

3、直接従事者の豊かさと欠乏: 福音の進展に直接従事している人は豊かも、時には欠乏をも覚悟すべきであるということです。神の恵みに応え、福音のもたらす幸いをひとりでも多くの人に伝えたい、また、多くの助けを必要としている人々のために真心から愛の手を差し伸べることができる人生、福音に基づくクリスチャン人生を過ごせる器を一人でも多く建て上げるために献身する主の働き人は、時には物質的な乏しさをも覚悟の上、献身しています。

さらにコリント教会、テサロニケ教会の例をみてみましょう。

Ⅰコリント9:14: 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。

Ⅰテサロニケ2:9: 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

Ⅱテサロニケ3:8-9: 人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。

1、指導者の覚悟: 必要とあれば、自分たちの必要を自ら満たすことも辞さない覚悟が求められています。そのためにクリスチャン人生建て上げにおいて、最初から持って生まれた能力、賜物を見出し、磨き上げておく必要があります。

2、生活能力を磨き、確保する:福音の働きに携わる人たちは、その働きで報酬を得られないときに備える必要がある、ということです。
 同時に、主にある兄弟姉妹は主の働き人に任の重さを理解すべきです。

3、伝道者、牧師の働きは、時には非常に重圧の大きい精神的・肉体的労働であることについて、しっかり捉えておきたいものです。

 教会の側から、主にある兄弟姉妹の立場から主の働き人を考える時、「牧師給をどうすか」という発想からではなく、その働き、任務からから考え、純粋に愛の支援という発想で働き人の必要、家族の必要を考え、それを具体化すべきであろうと思います。主の働き人はその真実な愛がわかれば金額を越えた感謝と信頼関係を築いていくものです。

まとめ:
① 種にあって、気前良くある: 富める者は、自分の豊かさを楽しみつつ、真の生き方を見失わないようにすべきです。(参照:Ⅰテモテ6:17-19

② 自分たちの財を分け合う: 神の家族共同体が、助けを必要としているときには使徒バルナバのように財を分け合う。

③ 自分に栄誉帰さない: 栄光は神に帰せよ。

④ 犠牲をいとわない: 教会を生み出す働き、運動は犠牲をいとわない満たしを必要としているゆえに、コリント教会の献金に倣いたい。

⑤ 小さな教会でもできる限り捧げよ: 教会を生み出す運動は、基金や人を送ることによって貢献することができる(参照:ピリピ教会の働き)

⑥ 働き人は献身し、諸教会から支えられるべきである: (参照:コリント9章)、
同時に、働き人は、喜んで自分の仕事に取り組み(天幕造り:この意味はアルバイトではなく、自らの技能)、教会の重荷、躓きにならないようにとり組む。各個教会の長老たちは、その働きのゆえに経済的なサポートによっても尊敬されるべき(参照:Ⅰテモテ5:17)。

⑦ 教会の発展は、財政と一体である: 私たちの犠牲的な献げ物なしに、教会の発展はありえない(参照:コリント8,9章)。


⑧ 「教会」とは何かを理解せよ: 神の目的のうちに計画された再創造に御業としての教会とはどのようなものか、「信仰による神の救いのご計画の実現」からそれを完全に理解するとき、私たちはその中で用いられ、「良いわざ」の必要に見合う者とされる。

2017年10月26日木曜日

地域に貢献する教会(3)

「お金」について

教会が神の家族内で助けを必要としている方々への援助はもちろんのこと、教会外、地域社会においても助けを必要としている方々へ愛の手を差し伸べ、地域の繁栄に貢献する存在について確認してきました。「貢献する」という視点から「お金」、また「富」について聖書の意図を理解しておきたいと思います。

「お金」に対するタブー: 私たちの文化の問題でもあるかもしれませんが「お金」について話題にすることに躊躇する傾向があります。ましてや教会ではなおのこと正面切って話すものではないようです。しかし、福音に基づく「良いわざ」としての地域貢献、しかも主の宣教大命令に直結する貢献を考える上で「お金」を切り離なして考えることはできません。むしろ主の働きが広がるためには利益を得ることのできる働きを積極的に考えるべきです。
  なぜ、躊躇してしまうのか、考えられることの一つとして長くカトリシズムの教会が歴史的に続いたがゆえに「禁欲」は広く宗教の本質であるかのように受け止められていると思われます。つまり人間の本能である「食欲」、「所有欲」、「性欲」の否定、禁欲です。しかし、人間の本能それ自体が罪ではなく本能を制御する考え方、価値観が間違っている場合があるのです。私たちは聖書に規範に基づいて本能を制御することで幸いを得るのです。
  今回の主題である「お金」の問題を考えるなら、一般的に「所有欲」の否定としての「清貧」は一つの理想的な徳として染みついているようです。それゆえに、現実的に必要不可決な「お金」についての話題そのものをタブー視(禁忌)してしまうのではないでしょうか。改めて共に考え、お金に対する間違った考え、ないし間違った教えについて話し合う必要があります。むしろ教会で聖書の意図に基づいた教育がなされなかったことについて、また誤解や間違った教えについて正される必要があるのではないでしょうか。教会が地域社会に貢献する存在であり、その「良いわざ」は主の宣教大命令に応えるものである、と言う視点から共に話し合って見ましょう。その上で以下の聖書箇所の意図を共に考えてみたいと思います。

 聖書の意図: 確かに聖書を読んでいくと「お金」については警告的教えが目につきます。一見すると否定的な教えと受け止めてしまいがちです。例えばイエス様の教え「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24)と明言しています。ここだけを読むと二者択一、「神様」か、「お金」かと考えてしまい、結果的に「お金に」に対して否定的になります。すぐ前にイエス様は「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」とあり、さらにその前後を読みますと、決して二者択一ではなく、優先順位を示していることがわかります。祝福の源である神様を第一にする、神の規範、価値観に基づいて富を管理することです。「お金」は目先の錯覚ではありますが、神に代わってしまうほどの万能感を持っています。その万能感に惑わされないために私たちは聖書の基本原則に基づいて建て上げられていなければならないのです。
 初代教会が誕生したとき、自然発生的に、かつ自主的に互いに支え合う共同体となっていることが読み取れます。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:44-47)とあります。さらに、「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」(使徒4:34-4:37)とあります。さらに読み進むとわかりますが「やもめ」のよう助けを必要としている方々が教会に加えられていたことがわかります。キリスト教会は決して共産主義的な私有財産を否定する共同体を目指していたのではなく、教会内外に貢献する神の家族としての聖書の意図を理解し、実践していたのです。つまり、持てる者は「すべてを捧げる」というのではなく余剰の富を、助けを必要としている人々のために豊かに用いたのです。時にはマケドニヤのクリスチャン達のように「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ」(Ⅱコリント8:2-3)ることもあります。
 十字架のイエス、復活のキリストに意図された「信仰による神の救いのご計画」を明確に解したパウロは教会内外に貢献する神の家族を明確に理解していました。
 「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」(Ⅰテモテ 6:10)。神を第一とする優先順位が明確に確立していない中で金銭を愛する悲劇的な結末です。しかし、富を「お金」を否定しているわけではありません。続いて読んでいくと、
「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように」(Ⅰテモテ6:17-19)との勧めに注目して下さい。祝福の源である神に、永遠に残るもの、福音に基づく「良いわざ」のために富を用いることです。富める者の排除ではありません。
  つまり、「神か富か」ではなく、「お金」の万能感に惑わされず、永遠に残る価値あるもののために持てる富を豊かに用いることを明確に示しています。この聖書の意図をしっかり捉えているなら、貢献する教会を建て上げ、主の宣教大命令に応えていくために知恵深くに「お金」、「富」を豊かにしていく実際的な取り組を展開させていけるのではないでしょうか。

ヤコブ(ヤコブ51-5節)は「お金」の持つ万能感のゆがみについて警告しています。

聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。
 誤解しないで下さい。「富の否定」ではありません。「お金」の持つ万能感にゆがめられて、価値のない富になっていることへの警告、また額に汗する労働に対する正当な対価を支払わずに得た不正な富への警告です。(続く)

2017年10月23日月曜日

地域に貢献する教会(2)

神の再創造の御業としての教会は信仰の共同体、神の家族だけに留まらず、地域共同体に貢献する存在であることについて共に考えました。

 イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
 家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために【主】に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。(エレミヤ29:4-7)

エレミヤの預言は異国の地に捕囚の民となった神の民がもう一度、律法の書を復唱し、神の意図を実現していくことを示しています。その異国の地に連れ去られた人々の中の一人、ダニエルはその典型的な存在として記されています。彼の生き方は神の民においても、異国の国においても神の前に寄与・貢献する生き方そのものでした。神の再創造の御業はキリストの完全な贖いの業に基づくわけですが、そのキリストの福音を理解することで旧約聖書の意図を明確に捉えた異邦人の使徒パウロは書簡の中でダニエルに示された神の意図を的確に捉え、再創造の御業である神の家族教会共同体の有り様に反映させています。

 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。ローマ人への手紙13章1-3節

 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。--- ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。Ⅰテモテへの手紙2章1-2,8節

つまり、クリスチャンたち、神の家族教会共同体の存在はこの世に対して対決姿勢ではなく、「公民」として知恵を持って福音に基づく「良いわざ」に取り組みます。それは世に対して、地域社会に対して神の福音を飾ることになります。私たちはこの世に対して隠遁するのではなく、無関心の姿勢でもなく、ましてや衝突など、政治的な抵抗勢力になったりすることのないように取り組みます。むしろ対話を生み出すように取り組みます。その対話の機会が福音を、私たちの信仰について証しできる良い機会なのです。私たちキリスト者にとって迫害は避けられないものかもしれません。しかし、不必要な迫害を起こさせることのないように知恵をつくすことも神の家族に対する大切な務め、責務です。そのために私たちは聖書の基本原則に基づいて建て上げられている必要がありますし、対話の機会に的確に福音を語ることできるように備えている必要もあるのです。

 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。コロサイ人への手紙4:5-6節

 神の家族である教会が真の意味で、実質的に貢献できるために教会に与えられている資源、潜在的資源をも含めさらに豊かにし、教会内外において、とりわけ地域に貢献できるように共に建て上げられると同時に、さらに豊かな資源にしていく取り組みが欠かせません。中でも貢献する資源の一つ、富について健全な考えを持ち、豊かに用いられるように取り組たいものです。(続く)

2017年10月19日木曜日

地域に貢献する教会

「教会主体」の神学教育を進める「教会」はどうあるべきなのか、奥義としての教会がこの世にあってどのような存在であるのか、基本的な考えを確認しておきたいと思います。

1、神の家族である教会は教会内外において寄与・貢献する共同体である。
2、貢献する資源の一つ、富は教会に還元され、教会共同体のみならず地域共同体においても益となるように用いられる豊かな資源となるべきである。

基本原則シリーズⅠは「神の家族」である「教会」について、学習者主体のもとに学びが進められます。神の再創造の御業としての「いのちの共同体」である教会はまさに神の創造目的を実現する共同体です。人間の創造主に対する罪の本質は「自己中心」、「自己本位」です。結果として真のいのちの交わりとしての共同体はゆがめられました。そのゆがめられた共同体を創造目的に再興する目的のためにキリストによる福音、先行的救いが備えられています。その福音によって生まれた再創造の御業としての教会は、建て上げられた教会に留まらず、地域共同体にまで広がっていくことが意図されています。それが主の宣教大命令と直結します。それゆえ神の再創造の御業が実現する真の共同体は人を建て上げる最良の場であるということです。

「個人の尊厳」それ自体は否定されません。しかし「個人主義」は聖書の創造目的とは異なる価値観です。すなわち、建て上げられるクリスチャンたちは個々人はもはや「我が道を行く」存在ではなく、聖書の基本原則に基づいて互いに尊敬と信頼を持ち、互いに建て上げられていく存在なのです。個々人の生活から、家族の中で、地域共同体、つまり職場や学校教育の場をも含め、キリスト者としての生き方を知恵深く習慣化していくように取り組みます。学習者主体、かつ「対話・問答」の学習を通して、自己中心を克服し、いのちの交わりである共同体の中で生きる知恵を豊かに育んでいきます。それが主の宣教大命令に応える取り組み、宣教大命令を実現する取り組みに直結しているのです。

基本原則シリーズⅡにおいては神の家族教会の核となる個々の家族、神の摂理の中で与えられた家族をいかに建て上げていくかについての取り組みです。この「個々の家族があって教会」と考えがちですが、神の家族である教会には個々の家族を建て上げていくリーダーシップが与えられています。そして建て上げられた家族は次世代、三世代、さらには四世代へと建て上げ、同時に信仰の継承に取り組みます。それを可能にする「額にあせする」労働の尊さを理解します。これを実現するためには若い時代から「信仰による神の救いのご計画の実現」に至るように聖書の「健全な教え」すなわち「基本原則」に基づいて建て上げられてこそ実現するものです。

 「額に汗する労働」: その人がこの地上で生を受けたときから備えられている能力、賜物を見出し、喜んで取り組める仕事を見出すよう取り組みます。その働きの豊かな対価は結婚を実現させ、自分たちの必要を自ら満たす責任を果たすと共に、余剰の富を助けを必要とする人々のために用いることができます。それ自体が主の宣教大命令を実現するものとして取り組みます。私たちの「良いわざ」としての生き方が宣教と密接に関わるもの、むしろ一体としてのクリスチャン生涯を確立します。これはまさに「持続可能な教会共同体」を実現するものです。同時に主の宣教大命令にも直結する取り組みになるというこを理解したいと思います。

 信仰の父アブラハムからはじまるイスラエルはダビデ、ソロモンにおいて栄華を極め「彼(ダビデ)はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(Ⅱサム エル7:13)と約束されつつも、神の意図にかなわず、ついに王国は分裂し、北王国は「神の怒りの杖」アッシリアによって滅ぼされました。とは言え「--- 裏切る女、妹のユダもこれ(「神の怒りの杖」)を見た。背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、わたしが離婚状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行ったのをわたしは見た」(エレミヤ3:7-8)と主は痛烈に批判しています。ただ神の憐れみ、恵みによって存続したのがユダ王国でした。しかし、ついに暴虐の民バビロンによってユダ王国は捕囚の民となったのです。そこに神の摂理があり、神の民にとって異国の地が神の律法の意図を熟考する機会となりました。その方向性を与えたのが預言者エレミヤの預言のことばでした。

「イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために【主】に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(エレミヤ29:4-7

ここに一つの原則を読み取ることができます。
①「額に汗する」労働
②結婚:家族の建て上げ
③次世代の建て上げ:信仰の継承
④自分たちの祝福から地域の繁栄に貢献する民

このような取り組みを通してイスラエルは捕囚帰還を果たし、再興したものの、再び「我が道を行く」後退のゆえに「信仰による神の救いのご計画」はメシヤ待望へと高まっていきます。神は神の民のゆがみを見通されてそのひとり子、イエス・キリストを真の人としてこの世に送られ、このキリストの完全な贖いの業のゆえに神の再創造の御業が実現することになりました。
 「信仰による神の救いのご計画」はキリストによる福音と福音に基づく「健全な教え」つまり「基本原則」に建て上げられることによって実現しました。まさにクリスチャン、クリスチャン家族、教会共同体はエレミヤを通して語られたように、地域の繁栄、幸いに貢献する存在そのものなのです。(続く)

2017年9月29日金曜日

ソクラテス問答(4)

先回、「ソクラテス問答」についての進め方について一つの資料を紹介しました。さらに確かな問答を展開するためにもう一つの資料を紹介します。実際に問答を導く体験をされた後に読んでいただき、検証し、そして再挑戦していただければと思います。「問答」は文字通り「学習者主体」で進められますので、理屈以上に実際の取り組みを積み重ねながら習得していくものです。

 教育の目的とは何か
    学び方を学ぶことである。
    あらゆる知識と知識を統合する。
    リーダーは、参加者が自分の今までの経験や思考過程を通して、自分なりの解答を見つけるよう促す必要がある。
    問答は真理や真意を知ろうと、声に出して思いめぐらす手法である。

1、基本事項(基本原則)を挙げる。(基本概念を深める)
2、物事の表面下にあるものを探求する。
3、思考の問題領域を追及する。
4、各自が自分の思考構造を理解できるようにする。
5、参加者がより明確で、正確かつ主題から離れないような発言に気をつけることができるようにする。
6、参加者一人一人が自分なりの論理で納得できるようにする。
7、参加者が思考の要素である主張、証拠、結論、争点となっている問題、前提、言外の意味、結果として当然言えること、概念、解釈、観点に気付けるようにする。

リーダーの役割: 考えるクリスチャンを建て上げる
    明確な認識:批評的な物の考え方を育てる。
そのために聞いて鵜呑(うの)みにせず、なぜ、そう考えられるのか、客観的に示す。
    そのために、クラスの環境が、真摯な態度、心を開いた語り方、理解しようとする聞き方、自律・自主の精神、論理性、自己判断ができやすい場とする。
    また、それがさらに一人一人の発言を促すことにつながることが感じられるようにする。

そうして初めて、参加者は問題を特定し、解決する自己能力を信じられるようになる。またそこから、自分で考えることが大事である、との思いを抱くようになり、また、自分で考えることは悪いことでも、間違ったことではないと思えるようになる。

権限を与えられている人(リーダー)は「正しい」答えを与える人ではなく、正しい答えを見つけ出す手助けをしてくれる人であり、自分たちの内に理解する力が与えられているということを発見できるようにさせることである。すなわち、「ソクラテス問答」におけるリーダーは説教する人ではなく、問いを投げかける人である。(それだけにリーダー自身、よく学び、理解を深め、学びの方向性を明確に持っていることが前提になる)

 リーダーの備え: リーダーは以下のような質問をするには、どうすれば良いかを学び備える。
        意図を探る
        理由や証拠を挙げる
        問答が混乱に陥らない(論点を明確に)
        言わんとするところを理解しようとして聞く気持ちにさせる
        実のある比較対象を導く
        矛盾や不一致を明確にする
        言外の意味や当然の帰結を引き出すような質問をする

 考えるクリスチャンを建て上げるために:
        前もって分かりやすくお膳立てされた解答を与えることはしない。
        独善的な単なる意見を信じるようなことはさせず、大局的視点で考える。
        無理に質問者が「そうだ」と思えないような結論を押し付けたり、そのように問答を誘導したりしない。

1、大きな問題や課題をいくつかの部分に分け、扱いやすくする。
2、学習者自身にとって意味のある状況を作り出すことで学ぶ意義を見出せるようにする。
3、言い換えたり、質問し直したりすることで、学習者が自分の考えを明確にできるようにする。
4、考えさせる質問を投げかける。
5、問答が脇道にそれないようにする。
6、学習者同士が互いに説明し合うような働き掛けをする。
7、アドバイスをしたり、情報の用い方を示したりして、学習者自身が知らなければならない事は何かに気付けるようにする。
8、決して発言を中断させたり、無視したり、不当に却下したりせず、互いが互いの見解にきちんと向き合うよう対応する。

「ソクラテス問答」の三つの型
1、自然発生的・計画的でない問答
2、予備的問答
3、焦点を絞った問答

 1、自然発生的・計画的でない問答
  質問による探求→ 予期しない展開になる、疑問を質問に変える
 全く関係のないことを言ったとき、
 「新しい問題が提起されましたね」
 「なぜ、そう考えるか」
  「今の論点との関係は」
 ものによっては「後で取り上げましょう」

 質問による探求→ 予期しない展開になる、曖昧、あるいは一般的な言葉で応答した場合、
何人かの参加者に同じ質問に答えてもらう。
それぞれの理解の仕方を比べて見たり、違った角度からの質問をしたり、その比較を参加者自身にさせる。

 2、予備的問答
 リーダーが、参加者が何を知っているのか、どう考えているのかを知りたい時、色々な事を考えてもらいたい時に用いる。
 また後で問答をする時、役立つような質問、ある分野をどう考えているのか、問題領域や気付いていない偏見を明確にし、その人の興味や矛盾点を知るために用いる。

 3、焦点を絞った問答
ソクラテス問答の主要な型: 論点や概念を実際に深める。
参加者に自らの見解や全体像を明確にし、類別、分析、評価し、知っている事と、知らない事を判別し、関連のある事実と知識を統合してもらうことで、問答がより深く広がり、また焦点が絞られていく。
 幅広く秩序だった統合された問答をすることで、参加者が色々な考え方や洞察を発見し、それを発展させ、他の人たちと分かち合う体験をしてもらう。
前もって計画し、この問題をどう捉えているだろうか、そう考える根拠は何だろうか、どこから問題となる考え方が起こるのか、この問題に関して他にどのような事を考えるだろうか、どのような結論に達する可能性があるだろうか等々を考えておく。
リーダーはいつ、どの型の質問をすれば「知性の炎を燃え上がらせる問答」となるかに精通し、感性を磨いておくよう訓練している必要がある。

ソクラテス問答の分類法〉:
人間の考え方には普遍的特質がある
   1、明確にするための質問
2、思い込み、前提がないかを探る質問
3、論拠・証拠・要因等を引き出す質問
4、見方・視点に関する質問
5、引き出せる推測、推論・当然の帰結を探る質問
6、論点(質問・疑問・問題)についての質問

1、明確にするための質問
 ・それはどのような意味ですか、 
・あなたの言っていることと、今話し合っていることとの関連は、つまり、それを別の言葉で言い換えるとどうなりますか、
・ここで一番問題となっていることは何だと思いますか、
 ・例えばどのようなことですか
  ・あなたが一番問題にしたいことは…ですか、
  ・それは例えばということですか
  ・もう少し説明してもらえますか
  ・なぜそういうのですか
  ・つまり、あなたの言いたいことは「… 」ですか

2、思い込み、前提がないかを探る質問
・あなたはどう思いますか、
・あなたならどう考えますか、
・あなたは… …と考えているように思えますが、
・あなたの論拠は全て… …  から来ているように思えますが、
・あなたは… … 考えているようですね、なぜそう取るのが当然だと思うのですか、

3、論拠・証拠・要因等を引き出す質問
・例えばどのようなものが挙げられますか。
・あなたがなぜそう言えるのか教えてください。
・それは信じるに足るだけの十分な証拠と言えますか。
・あなたがその結論に達した理由は何ですか。
・それが正しいかどうかどうすれば分かりますか。

4、見方・視点に関する質問
・あなたは --- の視点からこの問題を捉えようとしていますが、なぜ --- ではなくて--- なのですか。
・他の考え方を持つ人たちはどう答えるでしょう。なぜ違った答えをするのでしょうか。どこからその違いが出てくるのでしょうか。
・この問題を違った角度から見ている人、違った角度からも見られると考える人はいますか。

5、引き出せる推測、推論・当然の帰結を探る質問
・つまりあなたの言いたいことは --- ですか、
--- と言われますが、つまり --- ということですか、
・もしそうなったとしたら、そのことの故に他にもどのような事が起こるはずだと思いますか。なぜですか、
・それはどのような影響を与えると思いますか。
・それは必ず起こることですか、それとも起こる可能性があることですか、

6、論点(質問・疑問・問題)についての質問
・どうしたらこの問題を解くことができると思いますか、
・誰かこの問題を解決できる人はいませんか、
・論点は明確ですか。皆さん論点が何であるか理解できますか、
・この問題を考えるとき推測されることは何ですか、
・この問題はなぜ重要なのですか、

ソクラテス問答: 思考の四つの方向論理
        「人には、考えを引き出してくる方向が4つある」
        ①どう考えるかは、その人の人生であり、②どのような根拠で、③どのような証拠をあげて、④どのように推論するかによって決まる。
        どう考えるかで、私たちの進む方向が決まる。
        どう考えるかは、この4方向を色々使いながらなされる。
        与えられた主題に対し、なぜそのように考えるのかを内省する機会を与える。
        自分の考えを立証しているか、あるいは立証できるかよく考える機会を与える。
        そう考えることでどのような推論をし、結論を引き出しているかを熟考する機会を与える。
        自分と考えの違う人が筋の通った反論を展開した場合、あるいは考慮すべき別の可能性を提起した場合どうするかを考えさせる。
        さらに「論点の明確化」と「論点を質問する」

不思議に思う! 自分で不思議に思うことを不思議に思う。
        参加者全員の思考が開花するようにリーダー自身が色々不思議に思う必要がある。
 ※色々質問を試す
 ※参加者の生活に密着した質問
 ※あきらめない。
  参加者が答えられないとき、
   ①質問の言い換え、
   ②質問の小分けにし、
   ③単純な質問をする。

参加者の習熟度に添う必要がある(学習者主体)
    参加者に合わせた質問を準備する。
    すぐに参加者とソクラテス問答を十分にできるなどと考える必要もない。
この方法を使えば、小学生であっても、特に高等教育を受けていない人とであっても、誰とでも理解を深める問答をすることができる。

Socratic Questioning and RoleRichard W.Paul,Ph.D.
Director the Center for Critical Thinking and Moral Critique
Sonoma State University
Chair, National of excellence in Critical Thinking
Published by Foundation for Critical Thinking, Santa Rosa,CA


2017年9月21日木曜日

「ソクラテス問答」(3)

「ソクラテス問答」実際について、一つの参考資料を紹介します。BILDのインターナショナルサミットに参加した際にいただいた資料の一つです。実際に問答を導く際の参考にしてみてください。初めて取り組む方にとって適切な手引き書です。



ソクラテス問答を導くにあたって
リチャード・クレマー
(by Professor Richard Kremer, Dartmouth)

 「質問されれば1日はそれを思いめぐらそう。しかし質問することを教えれば人は死ぬまで問い続ける。」―― 中国の格言

Ⅰ.基本前提:
ソクラテス問答は問答であって講義ではない。リーダーの役割は参加者一人一人の知識と経験を引き出し、それを整理し直して新しい何かを作り上げることである。参加者の発言にいちいち講釈を加えたり、さらには、長々と自分の考えを述べたりするようなことがあってはならない。質問に徹すること。

Ⅱ.基本ルール:
ソクラテス問答をするに当たっては、お互いがお互いの発言を尊重すること。決して、誰かが答えようとしている時に横やりを入れたり、話を制するような態度をしたり、隣の人と耳打ちしたりしてはならない。リーダーから指名されても断って構わないし、その理由を言う必要もない。リーダーも他の参加者もそのことで非難するようなことがあってはならない。このルールはソクラテス問答をする前に必ず確認し、守ること。

Ⅲ.リーダーはソクラテス問答をする前に、該当するテキスト箇所を十分に読み深め、参加者への質問を予め作っておく。

Ⅳ.質問の種類
A.答えが集約される質問(正しいか間違っているかといった事実認否的質問)
1.情報チェック:何時、どこで、誰が、どうした、
2.読んだことの反復:聖書は何と言っているか。

B.答えが分かれる質問(正しい答えがいくつかある質問)
1.推論させる質問:聖書の情報から当然導き出されることを考えさせる(推論)
2.解釈させる質問:聖書の記述から考えられることを検証する(推論の妥当性)。
3.移行させる質問:聖書の考えを新しい時代、地域、状況に置き換える。
4.内省させる質問:ソクラテス問答を通して、なぜそのように教えられ、考えさせられるようになったかを検証する。

V.質問の順序、ないし、段階を踏む質問
A.質問の手法
1.まず簡単な質問で始め、順次複雑な質問へと進んで全体を終えるようにする(答えが集約する質問から分散する質問へ)
 2.一つの問答の中でも何度か簡単な質問から複雑な質問へ、を繰り返す。

B.質問を投げかける相手を選ぶ手法
1.無作為:無作為に参加者を指名する。手を挙げて答えてもらう。
2.ソクラテス問答:同じ人に質問をいくつか重ねていくことで、その人の発言を明確にしたり、発言したりする前には気付いていなかった何かに気付くようにさせる。

いくつか正解がある質問に対して明らかに「間違った」解答がなされた場合どうする
 A.その解答者が「正解の一つ」に行き着くように再度違った角度からの質問をする。

B.解答者にその根拠を聞く:なぜそう考えるのか。何か例を挙げることができるか。

C.別な解答者に同じ質問をする。

Ⅶ.問答のスピード感
A.解答者にいちいちお礼を言ったり答えを繰り返したりしないで速やかに次の質問に移る。とにかく「対話・問答」、議論を進め、考えることに集中する。

B.答えを急がせない。ただし中々答えられないでいるような場合は質問の仕方を変えるとか、他の人に当てて欲しいか聞く。

C.決してリーダーが答えを出すようなことをしない。一人がダメでも他の人、また別な人と質問をしていく。

Ⅷ.最後にリーダーは、自分が取り扱おうとしていた大事な点を自分でまとめるか、参加者にまとめてもらうようにする。

どうしたらソクラテス問答が成功したと言えるか
これが成功した問答と言えるものはない。しかし、ソクラテス問答をしている時に、参加者同士で質問し合うような状況が生まれたり、お互いに考えを引き出しあったりするようになれば、参加者が何かしら刺激を受けていると言える。その時は静かに聞き役に回り、やり取りを中断させないようにする。

X.  Further reading:
Browne, M. Neil and Keeley, Stuart M.  Asking the right questions: A guide to critical thinking. 2d ed. Englewood Cliffs: Prentice Hall, 1986.
Wolf, Denis P."The art of questioning."  Academic connections (Winter 19487): 1-8.

2017年9月20日水曜日

「ソクラテス問答」(2)

「ソクラテス問答」はどこで: 実際にどこで「対話・問答」が行われるかについて紹介したいと思います。BILDから出版されている「基本原則シリーズ」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲがあります。その構成はシリーズⅠが核心的聖書の基本原則である「神の家族である教会」について、シリーズⅡはもう一つの核心的的聖書の基本原則、神の家族のもとで建て上げられる「各家族の建て上げ」について、それぞれ四冊のテキストがあります。各テキスト毎に核心的基本原則に関わる四つの主題(これも「基本原則」と言える)のもとに五つの論点を取り上げ、最後の六課ですべてを統合する取り組みがなされるように構成されています。シリーズⅢは五冊のテキストで、Ⅰ、Ⅱと基本的に同じ構成で、聖書解釈の原則も含め、聖書神学の手法について、同時に教会建て上げについて「信仰による神の救いのご計画の実現」に関わる原則を学べるように構成されています。

そして各シリーズの各課毎に以下の四つ分野に分けて取り組むよう構成されています。
1、みことばを学ぶ
2、文献に当たる
3、論点を考える
4、基本原則を適用する

この四項目のどこでいわゆる「ソクラテス問答」が行われるかと言えば、皆さんお分かりのように「3、論点を考える」においてです。「対話・問答」を実のあるものにするために「みことばを学ぶ」と「文献に当たる」においてこの課の論点について理解を確かなものにしておく必要があります。

理想的取り組み: ですから、学習者個々人が事前に取り組んでいることを前提にするなら、共に集まった時に「基本原則」を学ぶ取り組みは「論点に当たる」に焦点を当て、その課の論点を「対話・問答」によって深められることが理想です。みことば理解の確かさ、推論の妥当性、また文献の骨子を理解し、その上、みことば理解にどれだけ貢献しているかを確認しながら、基本原則を、現在の自分たちが置かれている状況の中で、摂理の内に置かれた文化の中でどのように実践できるかを考え、さらに意志的に取り組む新たな一歩を見出すために互いに問答します。

ここでも注意したいことは「論点:○○」とあり、「話し合いの前に論点を考えてみましょう」とあり、いくつか問いが記されています。しかし、その質問が共に行う問答のための問いではありません。それは問答の前に学習者個々人が事前に考えを整理しておくためであり、「ソクラテス問答」の備えです。その上で、問答に臨みます。しかし、慣れていないこともあり、そう容易ではないようです。

順を追って考えてみましょう。

「みことばを学ぶ」から「中心的な教えをまとめる」: ここでは論点を考える聖書箇所があり、熟読して聖書の著者の意図を文脈を含めて読み取る作業です。しかし、大半のクリスチャンたちの聖書に向き合う習慣、つまり自分の印象、自分の関心事から聖書を読んでしまう傾向があり、著者の文脈を「無視して」とまで言えないまでも、名文句、格言的な聖句を探す読み方、自分の主観を優先する読み方になりがちです。もちろん信仰者として生きる自分にとって、どのような影響があるかを考えながら聖書を読むことは大切ですが。ここに上げられている質問は主観的な思い込みから離れて客観的に著者の意図に近づくため、次の取り組み「中心的な教えをまとめる」ためにあります。つまり「質問を読んでよく考えてみましょう」にあるいくつかの問いが「対話・問答」のための問いではないということです。

基本原則シリーズの学びは「学習者主体」の学びでもありますので、自ら中心的教えを理解する一助としていくつかの問いが上げられています。主観を脇に著者の意図に集中し、また多角的視野で考えながら著者の意図を明らかにしていきます。この質問が完璧な問いだ、というわけでありませんが、自分の関心事、前提、主観的な思い込みから離れて客観的に著者の意図に近づくため、と考えてみてください。あくまでもこの課の聖書箇所の中心的な教えを見出すことが目的です。

翻訳テキストのゆえに文化の違いから考えにくい問いであったり、翻訳の的確な日本語表現でないことは避けられません。しかし、意味不明の表現は別として、聖書箇所を読み、文脈を考え、中心的な教えを見出す点で、むしろ客観的に聖書に向き合い、その意図を明らかにしていけるのではと思います。

批評的に文献を読む: グループによっては「みことばを学ぶ」の取り組みを考えるための各問いについて、互いに発表し合って、中心的な教えを確認することもなく「では、文献を読んでみましょう」と進められるを見、聞きすることがあります。これでは本来の学習目的を逸することになります。また、学習者のうちに納得感がないまま進められることになりますので、結果的に学びを中座してしまうことになりかねません。優先されるべきは聖書の意図を捉えることです。そうすることで文献に対して真の意味で批評的に向き合い、読み、理解を確かなもにすることを可能にします。是非、本来の取り組みに挑戦していただきたいと思います。

学習者主体を実現する次善の策: 普段から聖書記者の意図を探る取り組みを行っている場合はテキストを渡されてもある程度のことは取り組むことができるでしょう。しかし、大半のクリスチャンたちはそうした学びの経験はありません。それで予習をしてくることを前提に共に集まったときに「みことばを学ぶ」の各問いについて発題し、共に考え、根拠となるみことば、文脈からの推論の妥当性等を互いに確認し合いながら聖書の読み方、著者の意図を見つけ出す術を互いに補完し合えるようにします。教えてしまうのではなく「学習者主体」を大切に学習者自身が気づくことができるように導きます。次善の策として、ある程度、学習の仕方に慣れるまでそのように取り組んでみてください。

書き記された神のことば、聖書ですので、読み手中心にならない限り、著者の意図はそれぞれ異なる、と言うことにはなりません。共に共有できるところまで互いに理解を深められるようにします。そして、必ずそのテキストでの中心的な教えにたどり着けるように取り組みます。その上で「文献に当たる」に進むようにします。

「委任」: C-BTEパラダイムのワークショップやセミナーに参加していることを前提に、学び方に慣れるまでは、取り組みの指導は牧師が担当されるのが望ましいと思います。もちろん牧師であっても聖書神学の術を事前に承知しておくことが前提です。前提の理解としてはガイド「基本原則を教える」の内容を共有できていることです。そしてグループでの取り組みを導いていく中で、必ずみことば理解にセンスのある兄弟姉妹に出会うはずです。その時、その方に「委任」し、グループの学びを導いていただきます。牧師はしばらく傍らで支援し、確かな進め方を確認できたときに文字通り「委任」します。