2017年9月20日水曜日

「ソクラテス問答」(2)

「ソクラテス問答」はどこで: 実際にどこで「対話・問答」が行われるかについて紹介したいと思います。BILDから出版されている「基本原則シリーズ」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲがあります。その構成はシリーズⅠが核心的聖書の基本原則である「神の家族である教会」について、シリーズⅡはもう一つの核心的的聖書の基本原則、神の家族のもとで建て上げられる「各家族の建て上げ」について、それぞれ四冊のテキストがあります。各テキスト毎に核心的基本原則に関わる四つの主題(これも「基本原則」と言える)のもとに五つの論点を取り上げ、最後の六課ですべてを統合する取り組みがなされるように構成されています。シリーズⅢは五冊のテキストで、Ⅰ、Ⅱと基本的に同じ構成で、聖書解釈の原則も含め、聖書神学の手法について、同時に教会建て上げについて「信仰による神の救いのご計画の実現」に関わる原則を学べるように構成されています。

そして各シリーズの各課毎に以下の四つ分野に分けて取り組むよう構成されています。
1、みことばを学ぶ
2、文献に当たる
3、論点を考える
4、基本原則を適用する

この四項目のどこでいわゆる「ソクラテス問答」が行われるかと言えば、皆さんお分かりのように「3、論点を考える」においてです。「対話・問答」を実のあるものにするために「みことばを学ぶ」と「文献に当たる」においてこの課の論点について理解を確かなものにしておく必要があります。

理想的取り組み: ですから、学習者個々人が事前に取り組んでいることを前提にするなら、共に集まった時に「基本原則」を学ぶ取り組みは「論点に当たる」に焦点を当て、その課の論点を「対話・問答」によって深められることが理想です。みことば理解の確かさ、推論の妥当性、また文献の骨子を理解し、その上、みことば理解にどれだけ貢献しているかを確認しながら、基本原則を、現在の自分たちが置かれている状況の中で、摂理の内に置かれた文化の中でどのように実践できるかを考え、さらに意志的に取り組む新たな一歩を見出すために互いに問答します。

ここでも注意したいことは「論点:○○」とあり、「話し合いの前に論点を考えてみましょう」とあり、いくつか問いが記されています。しかし、その質問が共に行う問答のための問いではありません。それは問答の前に学習者個々人が事前に考えを整理しておくためであり、「ソクラテス問答」の備えです。その上で、問答に臨みます。しかし、慣れていないこともあり、そう容易ではないようです。

順を追って考えてみましょう。

「みことばを学ぶ」から「中心的な教えをまとめる」: ここでは論点を考える聖書箇所があり、熟読して聖書の著者の意図を文脈を含めて読み取る作業です。しかし、大半のクリスチャンたちの聖書に向き合う習慣、つまり自分の印象、自分の関心事から聖書を読んでしまう傾向があり、著者の文脈を「無視して」とまで言えないまでも、名文句、格言的な聖句を探す読み方、自分の主観を優先する読み方になりがちです。もちろん信仰者として生きる自分にとって、どのような影響があるかを考えながら聖書を読むことは大切ですが。ここに上げられている質問は主観的な思い込みから離れて客観的に著者の意図に近づくため、次の取り組み「中心的な教えをまとめる」ためにあります。つまり「質問を読んでよく考えてみましょう」にあるいくつかの問いが「対話・問答」のための問いではないということです。

基本原則シリーズの学びは「学習者主体」の学びでもありますので、自ら中心的教えを理解する一助としていくつかの問いが上げられています。主観を脇に著者の意図に集中し、また多角的視野で考えながら著者の意図を明らかにしていきます。この質問が完璧な問いだ、というわけでありませんが、自分の関心事、前提、主観的な思い込みから離れて客観的に著者の意図に近づくため、と考えてみてください。あくまでもこの課の聖書箇所の中心的な教えを見出すことが目的です。

翻訳テキストのゆえに文化の違いから考えにくい問いであったり、翻訳の的確な日本語表現でないことは避けられません。しかし、意味不明の表現は別として、聖書箇所を読み、文脈を考え、中心的な教えを見出す点で、むしろ客観的に聖書に向き合い、その意図を明らかにしていけるのではと思います。

批評的に文献を読む: グループによっては「みことばを学ぶ」の取り組みを考えるための各問いについて、互いに発表し合って、中心的な教えを確認することもなく「では、文献を読んでみましょう」と進められるを見、聞きすることがあります。これでは本来の学習目的を逸することになります。また、学習者のうちに納得感がないまま進められることになりますので、結果的に学びを中座してしまうことになりかねません。優先されるべきは聖書の意図を捉えることです。そうすることで文献に対して真の意味で批評的に向き合い、読み、理解を確かなもにすることを可能にします。是非、本来の取り組みに挑戦していただきたいと思います。

学習者主体を実現する次善の策: 普段から聖書記者の意図を探る取り組みを行っている場合はテキストを渡されてもある程度のことは取り組むことができるでしょう。しかし、大半のクリスチャンたちはそうした学びの経験はありません。それで予習をしてくることを前提に共に集まったときに「みことばを学ぶ」の各問いについて発題し、共に考え、根拠となるみことば、文脈からの推論の妥当性等を互いに確認し合いながら聖書の読み方、著者の意図を見つけ出す術を互いに補完し合えるようにします。教えてしまうのではなく「学習者主体」を大切に学習者自身が気づくことができるように導きます。次善の策として、ある程度、学習の仕方に慣れるまでそのように取り組んでみてください。

書き記された神のことば、聖書ですので、読み手中心にならない限り、著者の意図はそれぞれ異なる、と言うことにはなりません。共に共有できるところまで互いに理解を深められるようにします。そして、必ずそのテキストでの中心的な教えにたどり着けるように取り組みます。その上で「文献に当たる」に進むようにします。

「委任」: C-BTEパラダイムのワークショップやセミナーに参加していることを前提に、学び方に慣れるまでは、取り組みの指導は牧師が担当されるのが望ましいと思います。もちろん牧師であっても聖書神学の術を事前に承知しておくことが前提です。前提の理解としてはガイド「基本原則を教える」の内容を共有できていることです。そしてグループでの取り組みを導いていく中で、必ずみことば理解にセンスのある兄弟姉妹に出会うはずです。その時、その方に「委任」し、グループの学びを導いていただきます。牧師はしばらく傍らで支援し、確かな進め方を確認できたときに文字通り「委任」します。

0 件のコメント:

コメントを投稿