2017年9月10日日曜日

「建て上げ」

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方(承前)
 3.「建て上げ」という考え方

なぜ、C-BTEが重要であるか、その理由を解き明かす上で、とても重要な基本概念である「委任」について紹介しましました。さらに「建て上げ」という考え方に注目してみたいと思います。

「建て上げ」のギリシャ語(ステリゾウ:στηρίζω)の意味は「しっかり据え置き、強化し、確立し、援助し、また安定させる」等の意味合いで用いられています。それはパウロの宣教活動の中で繰り返し用いられている鍵となる言葉です。

使徒14章1~23節: パウロの宣教に対する激しい迫害の中で弟子となった人たちに対するパウロに取り組みについて、『彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。』(14:21-22)。

15章36~16章5節:パウロの第二次伝道旅行、ヨーロッパ伝道への道が開かれたときの記事です。その結びに「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った」(16:5)とあります。

18章22~23節:再度、パウロは宣教地を訪問し、クリスチャンたちを励まし、信仰を確かなものにするために取り組みました。「それからカイザリヤに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行った。そこにしばらくいてから、彼はまた出発し、ガラテヤの地方およびフルギヤを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた」(18:22-23)。

ローマ1章8-15節:パウロのローマにある主の教会への訪問を切望し「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです」(1:11)と記しています。

16章25-27節:「 私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」(16:25-27)。

パウロがキリストの福音を信じ、救われたクリスチャンたちをしっかりと信仰に堅くし、強化し、揺るぎないもにしようと取り組むのは他ならなぬ主イエス様の思い、父なる神の意図であることを、祈りに表現しています。

Ⅰテサロニケ3章1-13節、特に2節:「私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした」(3:2-3)。パウロの次世代同労者テモテに委任して、テサロニケのクリスチャンたちを励ましています。

Ⅱテサロニケ2章17節:「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように」(2:16-17)。信仰の確かさは福音に基づく「良いわざ」、生き方が伴ってこそであることが読み取れます。

特に「使徒の働き」の著者ルカは主の宣教大命令がどのように展開していったかに焦点を当て、主要な出来事に選び記述しています。単に原始キリスト教会の出来事の記録以上の意図があることに注目したいと思います。その文脈で「建て上げ」の意味合いを理解していただければと思います。

興味深いことに、先に使徒として主から召されていたペテロ、主にある同労者であるパウロを引き合いに出して励ましています。ペテロが建て上げについて言及するパウロ書簡にふれ、信仰の励ましをしていることに注目してください。

Ⅱペテロ3:14-17: 「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」

〈パウロの教会建て上げ過程〉
段階1:福音の宣言
段階2:クリスチャンたちを共同体に集め、その信仰を強化し、群れの監督として長老たちを任命した。
段階3:パウロの働きの継続:手紙を書いたり、訪問したり、教会を建て上げるという パウロの働きを助ける忠実な人たちを訓練することによって。
段階4:パウロは、それらの教会が新しい地に福音をもたらす拠点として用い、パウロ と共に福音のさらなる前進のために参加するよう励ました。
段階5:パウロは、自らが教会を十分建て上げるための助力となるよう、また、次世代にこの働きを継続するために訓練できる忠実な働き人を見出せるよう訓練していた鍵となる働き人に委ねた。

以上の5つの建て上げの過程は、パウロの宣教の優先順位の型を示す上で非常に重要です。パウロは誰よりも主の宣教命令に非常に積極的であったことは間違いありません。しかし、パウロは福音宣教のために開かれた門を目の前にしても、既存の地区教会の建て上げに無関心のまま、新たな地への福音拡大を優先するようなことはなかったということです。
 参照:Ⅱコリント2章12-14節: 「私が、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いてくださいましたが、兄弟テトスに会えなかったので(コリントに遣わしていた)、心に安らぎがなく、そこの人々に別れを告げて、マケドニヤへ向かいました。しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」

2017年9月9日土曜日

「委任」という考え方

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方

「委任」という考え方: 「委任」という考え方はパウロの取り組みから引き出された概念です。使徒の働き13章以降に記されているパウロの伝道旅行を見ていくと、まず拠点都市での伝道が始まり、教会設立、そして救われた人たちの忠実な方に群れの責任を「委任」し、そして次の町、拠点都市へと移動、という一つの循環過程を確認できます。「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた」(使 14:23)。

さらに使徒20:17-38を見ますと、これらの委任は地区教会ごとの長老たちにあったことが分かります。注目すべき点はパウロは3年間で神の全ての計画を彼らにゆだねたことです。ただし、委任について留意すべきことは委任しておしまい、ということではなかったことです。その後、折に触れ、書簡を送ったり、自分に代わる同労者を送ったり、時には自ら再訪問し教え、訓戒し、励まし続けたことです。

中でもテモテやテトスの事例は後々の教会への一つの範例として注目させられます。そのテモテに見られる成長過程は今日の私たちに示す次世代育成の理想的範例です。そのことをしっかり心に据えて、現実的に、かつ段階的、発展的に委任の原則を実行していきたいものです。

パウロの第二次伝道旅行の際にルステラに行ったとき青年テモテを見出し、宣教チームの一員に迎え入れ、訓練され、成長し委任されていきました。その前後の経過、テモテの成長記録に注目し、その時間的経過たどることができます。

神のみことばの権威による基礎
「 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています」(Ⅱテモテ1:5)。
「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」(3:15)。
「それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった」( 使徒16:1-2)。

内面性の成長
「ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった」(使徒16:2)。
「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、--- また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです」(Ⅰテモテ 3:2,7)。

伝道・牧会の成熟
「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」(ピリピ2:20-22)。
「キリストの福音において神の同労者であるテモテ」(Ⅰテサロニケ3:1-5)
「キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」(Ⅱテモテ1:13,2:2)。

生き方の成熟
「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(Ⅱテモテ1:6-7)。       
「あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Ⅱテモテ2:22)。
「あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい」(Ⅱテモテ4:5)。

集大成〉:パウロのモデル
「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(Ⅱテモテ4:6-8)。

テモテはパウロと行動を共にしながら、時にはパウロに代わっての宣教の業に取り組みました。牧会書簡と言われるテモテへの手紙Ⅰ、Ⅱの中にパウロの次世代の働き人して建て上げられていく様子が読みとれます。そしてパウロが次世代の働き人テモテにパウロがしたようにテモテに対して「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」(Ⅱテモテ2:2)と受けたものを次世代に委ねる、委任の原則を示しています。

テモテに見られる成長過程における時間軸
1.節目ごとの出来事
2.メンターたちによる指導
3.伝道・牧会の経験(真実な人間関係を築く)
4.家族建て上げ
5.将来の目標を描く
6.伝道・牧会活動への意欲
7.達成

推薦
①人格の確かさ
②賜物と実の証明
③教える能力
④忠実さ

委任
①信仰の保持
②言葉の論争を避ける
③委任の確かな働き人
④明らかな成長
⑤純粋な良心

C-BTE:教会主体の神学教育・指導者育成の根拠となる聖書のパラダイム、その聖書の範例として考えていただき、今日の私たちの諸教会においてどのように適用できるのかを共に考え、知恵を出し合えればと思います。

2017年9月8日金曜日

C-BTEの基本概念

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」
 2.「委任」という考え方
 3.「建て上げ」という考え方
 4.「ハビタス」としての神学
 5.聖書の「基本原則」

これらの重要な概念に基づく論拠を紹介したいと思います。

基本概念1、「C-BTE」教会主体の神学教育: 「信仰による神の救いご計画の実現」における奥義としての神の家族、教会の存在がいかに重要であるかについて、ほとんどの牧師たちと共有できるものと思います。その教会の建て上げにおける指導者を育成する訳ですから、論理的帰結として教会主体神学教育は理にかなうことを納得いただけるものと思います。

しかし、これまでそうした取り組みを経験していなかったがゆえに、とは言え、原始キリスト教時代、古代教会においては普段になされていた神学教育・指導者育成ではありますが、この理念を実行、実現するには克服しなければならないいくつかの課題があります。しかし、教会は単に集まるところ以上の意味合いがあることを共有できれば、先に紹介した「聖書の基本原則から」の記事で紹介しましたように、聖書の基本原則に基づく聖徒の建て上げに取り組まれることで「教会主体の神学教育」の第一歩を踏み出すことができます。C-BTEのリソースは実際に教会主体の神学教育・指導者育成が取り組めるように編集されています。

C-BTEは奥義としての教会、その命の営みにおける教育、訓練プログラムです。そして教会の牧師はその教育、訓練プログラムにおいて、きわめて重要な関わり合いを持って取り組むということです。特に「聖徒の建て上げ」、次世代の指導者育成におけるリーダーシップはとても重要です。牧師たちに新たな任務を加える、という発想ではなく、牧師に与えられた役割の優先順位の再考であることに注目してください。

改めて聖書に注視する: ①C-BTEは新約聖書の模範、パウロとテモテの手法、イエスが12弟子を訓練した手法に基づくものであり、②C-BTEは牧会と伝道、学問と人格形成を統合したものです。それはキリストの体である教会のいのちの営みにおいてこそ実現可能な取り組みと言えます。③C-BTEは教会の建て上げ、訓練と奉仕の働き、つまり教会の「伝道・牧会」を中心に据えるものであることを共有していただけるのではと思います。

牧師の現実の多義に渡る牧会の務めを考えると、どれだけできるのだろうかと躊躇される指導者もおられると思います。次に挙げる概念「委任」という聖書の考え方を共有することで発展的に取り組むことができると思います。

以下に取り上げる四つの概念、2.「委任」という考え方、3.「建て上げ」という考え方、4.「ハビタス」としての神学、5.「基本原則」等は、なぜ、C-BTEが重要であるか、その理由を解き明かす上で、とても重要な基本概念です。

2017年9月7日木曜日

「パラダイム」の意図

「C-BTEパラダイム(paradigm)」という表現を用いることに、特に「バラダイム転換」との表現には違和感、ないし拒否感を抱かれる方々もおられるかもしれません。聖書理解とか神学の分野で「パラダイム」を用いることが適切なのかどうかの議論は別として、「パラダイム」を用いる表現の意図を紹介しておきたいと思います。

「コペルニクス的転回」?:多くの方にはすでに存知のように「パラダイム」という用語は科学哲学者トーマス・クーンによって提唱されたものです。当然のことながら科学史及び科学哲学上の概念で、その視点から私たちの聖書理解、キリスト信仰、特に神学教育・指導者育成において「パラダイム転換」が必要だ、との提示は現在の理解、取り組みに対する全否定という印象を受けかねません。大げさな言い方かもしれませんが「コペルニクス的転回」ほどの転換要求です。必然的に「上から目線」を感じられる方も少なくないと思います。

一般化された「パラダイム」: 適切であったのかどうか判断しかねますが、クーンの提唱した「パラダイム」という概念は後に一般化され、一時代の支配的な物の見方や時代に共通の思考の枠組を指すようになりました。私たちはそういう意味での「パラダイム」を使用しています。つまり、パラダイムとは特定の共同体に所属する人全員が共有する信条、価値観、手法等について言うものです。例えばバプテストに属する人たちの全てが共有する信条、価値観、手法等をパラダイムと言うわけです。とは言え、決して一元的ではありませんが。

類型: パラダイムの類型として①小局的分類( Microparadigms ):個別の問題(例:頭を覆う)、②中局的分類( Mesoparadigms ):伝統全体(例:形・制度の廃止)、③大局的分類( Macroparadigms ):時代全体(例:宗教改革時代、啓蒙時代、ポストモダンなどが上げられます。
 最近では日本語にも翻訳されているボッシュの『宣教のパラダイム転換』とかハンス・クングの「神学と教会の歴史のパラダイム変化」等に扱われているキリスト教史における「パラダイム」の変遷の捉え方は参考になります。

聖書のパラダイム: そうした中で私たちは改めて聖書のそのものの「パラダイム」に注目し、今日の文化の中で教会の建て上げ、宣教をどう展開できるのかを考えようとしています。それが C-BTE(Church-Based Theological Education)です。しかし、実は、これは目新しいものではなく、聖書の規範、すなわち「キリストと使徒たちに手法」に戻ることです。つまり、C-BTEと言うパラダイムは「キリストと使徒たちのパラダイム」に注目しているということになります。そうであれば、誰もが持つ聖書に真摯に向き合って再考できるパラダイムでもあるわけです。聖書の記述、規範、その意図に基づいて真偽を確かめることができるパラダイムでもあります。

C-BTEパラダイムは以下の五つの基本概念にまとめられます。
1.「C-BTE」「教会主体」という考え方、
2.「委任」という考え方、
3.「建て上げ」という考え方、
4.「ハビタス」としての神学、
5.聖書の「基本原則」から成熟へ、

さらに順を追って説明したいと思います。

                    

2017年9月5日火曜日

基本原則とは

前回、翻訳出版されている基本原則シリーズⅠ、Ⅱの編集構成についてふれました。奥義としての神の家族である教会共同体が建て上げられていくクリスチャン人生、そして教会を構成する各家族の建て上げ、次世代、三世代へと継承される家族です。しかも、置かれた地域社会に貢献できる生き方、しかも主の宣教大命令に応えていく主体的なクリスチャン人生の建て上げです。

基本原則シリーズ: ビルドのテキストにおいにて記されている基本原則の要点は以下の通りです。宣教、告知と言われる「ケリュグマ」の内容は新しい契約と言われていたキリストによる福音、神の再創造の御業です。そしてその福音のもたらす生き方についての教え、ディダケーについて8項目上げています。①福音に基づく考え方の刷新と新しい生き方、②個々の人格、隣人関係に関わる徳、③結婚を含む各家族の建て上げ、④真理の柱、土台である神の家族、教会の建て上げ、⑤教会建て上げに関わる各クリスチャンの賜物、⑥教会共同体における人間関係、愛、兄弟愛、一致、⑦上に立つ権威の尊重、地域社会での隣人愛、⑧「額に汗して」働く、労働の大切さ、自らの必要を自ら満たす責任等々です。
 理想と現実: 現実には様々な問題に直面します。弱さもあります。しかし、信仰は個々人の問題ではなく、神の家族の一員として互いに祈り、知恵を出し合い、励まし合い、時に訓戒し合いながら信仰を持って互いに建て上げていきます。また、教会にはすでに問題を抱えて求道し、信仰に導かれる方もいます。夫婦の問題、離婚、母子あるいは父子家庭など、親子関係の問題、仕事上の問題等々様々です。家族の家族である教会が痛みを共有しながら、聖書の基本原則に基づいて人生再建、再構築のために共に取り組みます。

聖書理解の基としての基本原則: 基本原則シリーズの学びをしておられる方々から、福音書の学びがないのか、旧約聖書の学びがないのはなぜか、聖書には他にも大切なものがあるのではないか、と問われることがあります。C-BTEパラダイムは、他の聖書箇所の学びは不要、と言うわけでないことを理解されての問いと思いますが、なぜ、基本原則なのかを聖書全体の意図から理解しておく必要があります。

教会の教職者にとっては周知の事実ですが、聖書は神の啓示の書であり、最終的にキリスト・イエスご自身の御業に於いて完結しているように理解されているかもしれません。しかし、もう少し注意深く聖書を読んでみると、主イエス様は十字架の死を前にして、父なる神に対する願いによって「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その方は、真理の御霊です」(ヨハネ14:16-17)と約束されました。主たる目的は主ご自身が語られたことを思い起こさせ、またその真意を悟させて下さるというのです。同時に後に使徒として召されたパウロ書簡を読んでいくと、パウロは主ご自身からの啓示、つまり、もう一人の助け主、聖霊を通して示されたことがわかります。ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙にその記述があります。特にエペソ人への手紙に展開されているキリストの体である教会についての奥義は啓示によるものだとあります。

キリストの完全な贖いに基づく、神の再創造の御業は家族の建て上げ、また神の家族共同体の建て上げにおいて具体化していくことがわかります。ですから、ここで示されている基本原則、さらに福音に基づいて推論される聖書の基本原則を理解することで、ご在世当時のイエス様の教え、その意図が明確に理解できるようになるのです。ということは、主イエス様は旧約聖書に記された律法の意図を明確に語られたように、私たちも旧約聖書の意図を真に理解できるようになるということになります。

たとえば、エペソ4章21節以降を読みますと、「あなたがたが心の霊において新しくされ(キリストにある新生)、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」とあります。ここにキリストにある新生がどのようなものであるのかについて解すると共に創世記に記されている「神は人をご自身のかたちとして創造された」とある「かたち」とはどのようなものであるのかがよくわかります。さらにコロサイ3:10「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」とあるみことば、神の「かたち」として人の理解がさらに補完されます。

このように、啓示の圧巻と言える奥義としての教会を通して示された聖書の基本原則を明確に理解し、かつ、知識から知恵に至るように熟考することによって、必然的に聖書全体を理解していけるようになるということです。ですから、基本原則シリーズの学びと訓練が学びのための学びに終わらない取り組みを実行することがとても大切です。

日本版「聖書の基本原則シリーズ」: それでも日本という文化からの視点で考えたときに、福音理解の前提として「創造主である神」についての基本的な理解を共有する学びが大切だと思います。C-BTEパラダイムを真に理解し、共有できた指導者たちによって日本版「聖書の基本原則シリーズ」が編集されることを願っています。

2017年9月4日月曜日

福音と福音に基づく教え

前回、クリスチャンにとって繰り返すことのできない人生の方向性を定める聖書の「基本原則」そのものの存在について紹介しました。しかし、「基本原則」の中身について、聖書には、これが基本原則という項目が箇条書きにまとめられているものはありません。その「基本原則」の中身の鍵となるものが宣教(ケリュグマ)、特に「宣教」の動詞形「宣べる」は新約聖書一貫して出てきます。つまり、キリストの福音の宣言です。そして福音に基づく生き方としての「教え」(ディダケー)に集約されるようです。

音訳の意図: テキストに「ケリュグマ」とか「ディダケー」とあえて音訳の表記に違和感を覚えられるかもしれません。事実、自分もその一人で、翻訳の際、逡巡しました。しかし、あらためてその用語の聖書の「信仰による神の救いのご計画の実現」における重要性を考えると、音訳によってこれまでの先入観を排除し、再考する意味合いがあることがわかります。

BILDインターナショナルサミット等でのセミナー参加の機会に関係者、また執筆に係わった方に質問し、説明を受け、その意図を理解しました。C-BTEパラダイム転換において大切な視点が「初代教会に戻って再考する」ことです。その初代教会において、聖徒の建て上げ、つまりキリストの教会建て上げにおいて最も重要視し、宣べ伝えていたのが、キリスト福音、つまりキリストある新生、そしてその福音に基づく教え、神の民としての生き方でした。初代教会が最も大切なものとし、繰り返し強調されていた「ケリュグマ」と「ディダケー」の音訳によって、今日の私たちも初代教会のように共感しクリスチャン建て上げを再考してみよう、という意味での強調であることに納得しました。おそらく新約学にある程度通じている方でしたら理解できるものと思います。

「ケリュグマ」と「ディダケー」の相関概念:「ケリュグマ」の中心はキリストの完全な贖いに基づく救い、すなわち「福音」そのものです。「信仰による神の救いのご計画の実現」です。エペソ人への手紙1~2章には福音がもっとも明快に記されている箇所です。一言で言えばキリストにある「新生」から始まるクリスチャン生活です。この新生についてはローマ人への手紙6章をも合わせて読むと、より明快に理解できると思います。信じる者はキリストとの合一によってキリストと共に死に、「キリストとともに葬られ」、「キリストの復活とも同じようになる」というのです。それはキリストにあって新しい歩みをするためです。

エペソ人への手紙1~2章に戻り、2章10節にキリストにあって新生した「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」とあります。ここに「ケリュグマ」と「ディダケー」の相関概念を明確に読み取ることができます。さらに2章後半を読みますと、キリストにあって新しい歩みをする人々は個々人の信仰に留まるのではなく、新たな共同体を形成すること、つまり、奥義としての神の家族、教会共同体の建て上げです。

基本原則シリーズⅠ、Ⅱ: 翻訳出版されている「基本原則シリーズⅠ」は神の家族、教会建て上げに焦点を当て、「ケリュグマ」と「ディダケー」を取り扱っています。そして「基本原則シリーズⅡ」では神の家族、教会を基礎づけるもの、教会の核となる各家族の建て上げに焦点を当て、福音に基づく「良いわざ」、教会内外、どちらにも評価に耐え得る生き方を確立する教え(ディダケー)に基づいて建て上げに取り組むように構成されています。これはまさに持続可能な教会建て上げに直結する取り組みでもあります。(続く)

2017年9月1日金曜日

鍵となる概念:聖書の「基本原則」

先回、C-BTEパラダイムは聖書の「基本原則」から、と紹介しました。問題は聖書の「基本原則」は聖書の意図なのかどうかです。現在はBILDから出版されている基本原則シリーズの翻訳テキストを用いています。翻訳ゆえの制約があることは承知の上ですが、聖書の「基本原則」は文化を越え、共有できるものです。なぜなら聖書は神の啓示の書、私たちにとって唯一絶対の規範であることを共有しているからです。問題はそれを理解して、どのように適用していくか、いかに実践的戦略を描き立てることができるか、それぞれの文化の中で考えなければなりません。

まず、「基本原則」そのものについて紹介したいと思います。「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません」(コロサイ2:8)。

基本原則シリーズを学び始めていくときに、この聖句に出てくる「この世に属する幼稚な教え」の「幼稚な教え」こそ「基本原則」の根拠として説明されていることに戸惑いを覚えられる方は少なくありません。私もその一人でした。人によっては、否定的なこととして述べている「幼稚な教え」をクリスチャンが学ばなければならないなんておかしい、意味をなさないのでは、と言います。確かに私たちが持っている日本語聖書を読む限り、その疑問は当然と思われます。まもなく出版される新改訳聖書の改訂版に期待を込めています。もう少し丁寧に文脈から考えると、ここで言わんとしていることは、基本となる教えが異なっていれば、つまりこの世の基本原則、キリストの教えに基づくものでなければ、結果的にキリストにある成熟、すなわち「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」(エペソ4:13)ことはできない、と言っていることにお気づきになると思います。

それでも「幼稚な」という日本語の響きは基本、初歩、根本というよりも、どちらかといえば否定的、揶揄的な語感があります。これは残念ながら日本語聖書の不適切な訳語によると思われます。それは、パウロ書簡の聖書神学から見出だされる概念の一つにキリストの「基本原則」があることに気づいていないからではないかと思います。そういう意味では聖書解釈の問題でもあります。ただし、ガラテヤ人への手紙4章に繰り返されている「幼稚な教え」についての別訳が脚注に記されており、そこでは「原理」つまり「原則」の意である用語も記しています。

「幼稚な」と訳されているギリシャ語のストイケイオンは宇宙万物の基本物質、構成要素、基本とか初歩、また天体という意味をも持つ言葉です。新欽定訳聖書(NKJV)では「この世の基本原則」と訳しています。そうであれば「基本原則」そのものに価値判断は不要です。問題は何に基づく「基本原則」なのか、その「何」の部分が重要になります。私たちはキリストご自身が備えて下さった福音、そしてその福音に基づく教え、すなわち「信仰による神の救いのご計画の実現」(Ⅰテモテ1:4b)するものとなります。

さらにヘブル人への手紙5:12に「 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」ここに述べられている「神のことばの初歩」の「初歩」は先ほどの「基本原則」、新改訳で「幼稚な教え」と訳している「幼稚」のことです。この「初歩の教え」、つまりこの世の初歩の教えではなく、「キリストの初歩の教え」、つまり「基本原則」をしっかり学びとっていないと、クリスチャンが成熟に至ることはないと言うわけです。「初歩の教え」という日本語の響きも、できればその教えを後にしてしっかりした教えに学びなさいと言っているように響きます。これも残念ながら「基本原則」の概念を解していないことによるものと思われます。もっともヘブル書の文脈では「もう一度誰かに教えてもらう必要がある」と言っていますので「初歩の教え」の否定、つまり「基本原則」の否定ではないことが分かります。さらに「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教え(基本原則)をあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」(6:1)と勧めています。「基本原則」は一クリスチャンに留まらず、地区教会の建て上げにも影響していきます。
 
非常に遠回りのようですが、神が意図された再創造の御業であるクリスチャンライフを確立し、地区教会が建て上げられ、世界的規模で宣教の役割を果たすために、まずキリストの「基本原則」にしっかりと根ざしたクリスチャンを建て上げていなければならない、と言うことです。