2017年9月4日月曜日

福音と福音に基づく教え

前回、クリスチャンにとって繰り返すことのできない人生の方向性を定める聖書の「基本原則」そのものの存在について紹介しました。しかし、「基本原則」の中身について、聖書には、これが基本原則という項目が箇条書きにまとめられているものはありません。その「基本原則」の中身の鍵となるものが宣教(ケリュグマ)、特に「宣教」の動詞形「宣べる」は新約聖書一貫して出てきます。つまり、キリストの福音の宣言です。そして福音に基づく生き方としての「教え」(ディダケー)に集約されるようです。

音訳の意図: テキストに「ケリュグマ」とか「ディダケー」とあえて音訳の表記に違和感を覚えられるかもしれません。事実、自分もその一人で、翻訳の際、逡巡しました。しかし、あらためてその用語の聖書の「信仰による神の救いのご計画の実現」における重要性を考えると、音訳によってこれまでの先入観を排除し、再考する意味合いがあることがわかります。

BILDインターナショナルサミット等でのセミナー参加の機会に関係者、また執筆に係わった方に質問し、説明を受け、その意図を理解しました。C-BTEパラダイム転換において大切な視点が「初代教会に戻って再考する」ことです。その初代教会において、聖徒の建て上げ、つまりキリストの教会建て上げにおいて最も重要視し、宣べ伝えていたのが、キリスト福音、つまりキリストある新生、そしてその福音に基づく教え、神の民としての生き方でした。初代教会が最も大切なものとし、繰り返し強調されていた「ケリュグマ」と「ディダケー」の音訳によって、今日の私たちも初代教会のように共感しクリスチャン建て上げを再考してみよう、という意味での強調であることに納得しました。おそらく新約学にある程度通じている方でしたら理解できるものと思います。

「ケリュグマ」と「ディダケー」の相関概念:「ケリュグマ」の中心はキリストの完全な贖いに基づく救い、すなわち「福音」そのものです。「信仰による神の救いのご計画の実現」です。エペソ人への手紙1~2章には福音がもっとも明快に記されている箇所です。一言で言えばキリストにある「新生」から始まるクリスチャン生活です。この新生についてはローマ人への手紙6章をも合わせて読むと、より明快に理解できると思います。信じる者はキリストとの合一によってキリストと共に死に、「キリストとともに葬られ」、「キリストの復活とも同じようになる」というのです。それはキリストにあって新しい歩みをするためです。

エペソ人への手紙1~2章に戻り、2章10節にキリストにあって新生した「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」とあります。ここに「ケリュグマ」と「ディダケー」の相関概念を明確に読み取ることができます。さらに2章後半を読みますと、キリストにあって新しい歩みをする人々は個々人の信仰に留まるのではなく、新たな共同体を形成すること、つまり、奥義としての神の家族、教会共同体の建て上げです。

基本原則シリーズⅠ、Ⅱ: 翻訳出版されている「基本原則シリーズⅠ」は神の家族、教会建て上げに焦点を当て、「ケリュグマ」と「ディダケー」を取り扱っています。そして「基本原則シリーズⅡ」では神の家族、教会を基礎づけるもの、教会の核となる各家族の建て上げに焦点を当て、福音に基づく「良いわざ」、教会内外、どちらにも評価に耐え得る生き方を確立する教え(ディダケー)に基づいて建て上げに取り組むように構成されています。これはまさに持続可能な教会建て上げに直結する取り組みでもあります。(続く)

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