2017年9月21日木曜日

「ソクラテス問答」(3)

「ソクラテス問答」実際について、一つの参考資料を紹介します。BILDのインターナショナルサミットに参加した際にいただいた資料の一つです。実際に問答を導く際の参考にしてみてください。初めて取り組む方にとって適切な手引き書です。



ソクラテス問答を導くにあたって
リチャード・クレマー
(by Professor Richard Kremer, Dartmouth)

 「質問されれば1日はそれを思いめぐらそう。しかし質問することを教えれば人は死ぬまで問い続ける。」―― 中国の格言

Ⅰ.基本前提:
ソクラテス問答は問答であって講義ではない。リーダーの役割は参加者一人一人の知識と経験を引き出し、それを整理し直して新しい何かを作り上げることである。参加者の発言にいちいち講釈を加えたり、さらには、長々と自分の考えを述べたりするようなことがあってはならない。質問に徹すること。

Ⅱ.基本ルール:
ソクラテス問答をするに当たっては、お互いがお互いの発言を尊重すること。決して、誰かが答えようとしている時に横やりを入れたり、話を制するような態度をしたり、隣の人と耳打ちしたりしてはならない。リーダーから指名されても断って構わないし、その理由を言う必要もない。リーダーも他の参加者もそのことで非難するようなことがあってはならない。このルールはソクラテス問答をする前に必ず確認し、守ること。

Ⅲ.リーダーはソクラテス問答をする前に、該当するテキスト箇所を十分に読み深め、参加者への質問を予め作っておく。

Ⅳ.質問の種類
A.答えが集約される質問(正しいか間違っているかといった事実認否的質問)
1.情報チェック:何時、どこで、誰が、どうした、
2.読んだことの反復:聖書は何と言っているか。

B.答えが分かれる質問(正しい答えがいくつかある質問)
1.推論させる質問:聖書の情報から当然導き出されることを考えさせる(推論)
2.解釈させる質問:聖書の記述から考えられることを検証する(推論の妥当性)。
3.移行させる質問:聖書の考えを新しい時代、地域、状況に置き換える。
4.内省させる質問:ソクラテス問答を通して、なぜそのように教えられ、考えさせられるようになったかを検証する。

V.質問の順序、ないし、段階を踏む質問
A.質問の手法
1.まず簡単な質問で始め、順次複雑な質問へと進んで全体を終えるようにする(答えが集約する質問から分散する質問へ)
 2.一つの問答の中でも何度か簡単な質問から複雑な質問へ、を繰り返す。

B.質問を投げかける相手を選ぶ手法
1.無作為:無作為に参加者を指名する。手を挙げて答えてもらう。
2.ソクラテス問答:同じ人に質問をいくつか重ねていくことで、その人の発言を明確にしたり、発言したりする前には気付いていなかった何かに気付くようにさせる。

いくつか正解がある質問に対して明らかに「間違った」解答がなされた場合どうする
 A.その解答者が「正解の一つ」に行き着くように再度違った角度からの質問をする。

B.解答者にその根拠を聞く:なぜそう考えるのか。何か例を挙げることができるか。

C.別な解答者に同じ質問をする。

Ⅶ.問答のスピード感
A.解答者にいちいちお礼を言ったり答えを繰り返したりしないで速やかに次の質問に移る。とにかく「対話・問答」、議論を進め、考えることに集中する。

B.答えを急がせない。ただし中々答えられないでいるような場合は質問の仕方を変えるとか、他の人に当てて欲しいか聞く。

C.決してリーダーが答えを出すようなことをしない。一人がダメでも他の人、また別な人と質問をしていく。

Ⅷ.最後にリーダーは、自分が取り扱おうとしていた大事な点を自分でまとめるか、参加者にまとめてもらうようにする。

どうしたらソクラテス問答が成功したと言えるか
これが成功した問答と言えるものはない。しかし、ソクラテス問答をしている時に、参加者同士で質問し合うような状況が生まれたり、お互いに考えを引き出しあったりするようになれば、参加者が何かしら刺激を受けていると言える。その時は静かに聞き役に回り、やり取りを中断させないようにする。

X.  Further reading:
Browne, M. Neil and Keeley, Stuart M.  Asking the right questions: A guide to critical thinking. 2d ed. Englewood Cliffs: Prentice Hall, 1986.
Wolf, Denis P."The art of questioning."  Academic connections (Winter 19487): 1-8.

2017年9月20日水曜日

「ソクラテス問答」(2)

「ソクラテス問答」はどこで: 実際にどこで「対話・問答」が行われるかについて紹介したいと思います。BILDから出版されている「基本原則シリーズ」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲがあります。その構成はシリーズⅠが核心的聖書の基本原則である「神の家族である教会」について、シリーズⅡはもう一つの核心的的聖書の基本原則、神の家族のもとで建て上げられる「各家族の建て上げ」について、それぞれ四冊のテキストがあります。各テキスト毎に核心的基本原則に関わる四つの主題(これも「基本原則」と言える)のもとに五つの論点を取り上げ、最後の六課ですべてを統合する取り組みがなされるように構成されています。シリーズⅢは五冊のテキストで、Ⅰ、Ⅱと基本的に同じ構成で、聖書解釈の原則も含め、聖書神学の手法について、同時に教会建て上げについて「信仰による神の救いのご計画の実現」に関わる原則を学べるように構成されています。

そして各シリーズの各課毎に以下の四つ分野に分けて取り組むよう構成されています。
1、みことばを学ぶ
2、文献に当たる
3、論点を考える
4、基本原則を適用する

この四項目のどこでいわゆる「ソクラテス問答」が行われるかと言えば、皆さんお分かりのように「3、論点を考える」においてです。「対話・問答」を実のあるものにするために「みことばを学ぶ」と「文献に当たる」においてこの課の論点について理解を確かなものにしておく必要があります。

理想的取り組み: ですから、学習者個々人が事前に取り組んでいることを前提にするなら、共に集まった時に「基本原則」を学ぶ取り組みは「論点に当たる」に焦点を当て、その課の論点を「対話・問答」によって深められることが理想です。みことば理解の確かさ、推論の妥当性、また文献の骨子を理解し、その上、みことば理解にどれだけ貢献しているかを確認しながら、基本原則を、現在の自分たちが置かれている状況の中で、摂理の内に置かれた文化の中でどのように実践できるかを考え、さらに意志的に取り組む新たな一歩を見出すために互いに問答します。

ここでも注意したいことは「論点:○○」とあり、「話し合いの前に論点を考えてみましょう」とあり、いくつか問いが記されています。しかし、その質問が共に行う問答のための問いではありません。それは問答の前に学習者個々人が事前に考えを整理しておくためであり、「ソクラテス問答」の備えです。その上で、問答に臨みます。しかし、慣れていないこともあり、そう容易ではないようです。

順を追って考えてみましょう。

「みことばを学ぶ」から「中心的な教えをまとめる」: ここでは論点を考える聖書箇所があり、熟読して聖書の著者の意図を文脈を含めて読み取る作業です。しかし、大半のクリスチャンたちの聖書に向き合う習慣、つまり自分の印象、自分の関心事から聖書を読んでしまう傾向があり、著者の文脈を「無視して」とまで言えないまでも、名文句、格言的な聖句を探す読み方、自分の主観を優先する読み方になりがちです。もちろん信仰者として生きる自分にとって、どのような影響があるかを考えながら聖書を読むことは大切ですが。ここに上げられている質問は主観的な思い込みから離れて客観的に著者の意図に近づくため、次の取り組み「中心的な教えをまとめる」ためにあります。つまり「質問を読んでよく考えてみましょう」にあるいくつかの問いが「対話・問答」のための問いではないということです。

基本原則シリーズの学びは「学習者主体」の学びでもありますので、自ら中心的教えを理解する一助としていくつかの問いが上げられています。主観を脇に著者の意図に集中し、また多角的視野で考えながら著者の意図を明らかにしていきます。この質問が完璧な問いだ、というわけでありませんが、自分の関心事、前提、主観的な思い込みから離れて客観的に著者の意図に近づくため、と考えてみてください。あくまでもこの課の聖書箇所の中心的な教えを見出すことが目的です。

翻訳テキストのゆえに文化の違いから考えにくい問いであったり、翻訳の的確な日本語表現でないことは避けられません。しかし、意味不明の表現は別として、聖書箇所を読み、文脈を考え、中心的な教えを見出す点で、むしろ客観的に聖書に向き合い、その意図を明らかにしていけるのではと思います。

批評的に文献を読む: グループによっては「みことばを学ぶ」の取り組みを考えるための各問いについて、互いに発表し合って、中心的な教えを確認することもなく「では、文献を読んでみましょう」と進められるを見、聞きすることがあります。これでは本来の学習目的を逸することになります。また、学習者のうちに納得感がないまま進められることになりますので、結果的に学びを中座してしまうことになりかねません。優先されるべきは聖書の意図を捉えることです。そうすることで文献に対して真の意味で批評的に向き合い、読み、理解を確かなもにすることを可能にします。是非、本来の取り組みに挑戦していただきたいと思います。

学習者主体を実現する次善の策: 普段から聖書記者の意図を探る取り組みを行っている場合はテキストを渡されてもある程度のことは取り組むことができるでしょう。しかし、大半のクリスチャンたちはそうした学びの経験はありません。それで予習をしてくることを前提に共に集まったときに「みことばを学ぶ」の各問いについて発題し、共に考え、根拠となるみことば、文脈からの推論の妥当性等を互いに確認し合いながら聖書の読み方、著者の意図を見つけ出す術を互いに補完し合えるようにします。教えてしまうのではなく「学習者主体」を大切に学習者自身が気づくことができるように導きます。次善の策として、ある程度、学習の仕方に慣れるまでそのように取り組んでみてください。

書き記された神のことば、聖書ですので、読み手中心にならない限り、著者の意図はそれぞれ異なる、と言うことにはなりません。共に共有できるところまで互いに理解を深められるようにします。そして、必ずそのテキストでの中心的な教えにたどり着けるように取り組みます。その上で「文献に当たる」に進むようにします。

「委任」: C-BTEパラダイムのワークショップやセミナーに参加していることを前提に、学び方に慣れるまでは、取り組みの指導は牧師が担当されるのが望ましいと思います。もちろん牧師であっても聖書神学の術を事前に承知しておくことが前提です。前提の理解としてはガイド「基本原則を教える」の内容を共有できていることです。そしてグループでの取り組みを導いていく中で、必ずみことば理解にセンスのある兄弟姉妹に出会うはずです。その時、その方に「委任」し、グループの学びを導いていただきます。牧師はしばらく傍らで支援し、確かな進め方を確認できたときに文字通り「委任」します。

2017年9月19日火曜日

「ソクラテス問答」

なぜ、「ソクラテス問答」: C-BTEの学習手法として「ソクラテス問答」が紹介されています。しかし、仮にその学習手法に合点したとしても、「なぜ、聖書に基づく取り組みにソクラテスを引き合いに出すのか」と疑問を呈する方も少なくありません。結論から言えば「問答」の手法についての表現にこだわる必要はありません。その意図、内容、「対話・問答」の手法を正確に捉えることが肝心です。

時代、時代には特有の思潮: 歴史を振り返ると、その時代、時代には特有の思潮があり、その影響を受けて価値観や物の見方、日常生活の様式まで変革をもたらしています。1549年、日本へのキリスト教伝来と共に信仰だけに限らず自然科学、哲学など人文科学の分野まで影響をもらしました。そして長い鎖国の時代がありましたが、江戸幕藩体制から明治維新への移行はヨーロッパ近代思想を受けての大きな変革は顕著な例です。

影響を受けるということではキリスト教も例外ではありません。キリスト教界で何の疑念もなく受け入れられている学問の一つ「組織神学」はまさに時代の思潮の変革の中で生まれた学問です。古くはギリシャ哲学、そして近世の合理主義の延長線上に体系化されました。「組織神学」それ自体は決して否定されるものではありません。ただ明確なのは、その体系が聖書の意図ではなく、人間側の学問的な意図から生み出されたものだということです。そして今回、取り上げている「ソクラテス問答」はその真逆の例です。

「ソクラテス問答」: C-BTEが目指すのはまず、聖書の意図、「信仰による神の救いのご計画」に基づいてクリスチャン人生の方向性を確立することです。ここに知恵の伝統「ハビタスの手法」に戻る必要があり、そして「ソクラテス問答」その手法を理解する必要があるわけです。

ソクラテスは紀元前400年頃の哲学者でありますが、その頃すでに同様の「対話・問答」が聖書の世界でもなされていたとうことです。ユダヤ教のラビたち、またユダヤ人の親子の教育的対話においても「それでは、あなたはどう考える?」と、子供自身の発想を促す問答がなされているとのことです。言うなら「問答」は普遍的な手法であったと言えます。

考えさせる問い: 先回、「ハビタスの手法」、知恵の伝統に立ち返ることについて紹介しました。知恵は一方的に教えられ、指示されて生まれるものではありません。日常体験に即して「考える」ことから生まれます。そして、基本的な教え、原理原則に基づいて考える過程において、適切な「問い」が発せられることにより、考えはより広がり、また深まります。人は本能のおもむくままに生きる存在ではなく、「神のかたち」として創造された人間、自ら持つ規範に基づいて取捨選択し、決断し、意志する人格的存在であることの特性、そのものを示しています。

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」(ロマ8:5)。

「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい」(Ⅱコリント10:7)。

「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます」(Ⅱテモテ2:7)。

「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」(ルカ12:27)。

聖書においては単に規則を与え、指示するだけでなく、原理原則に基づいて「考え」、そして日常においてどう一歩踏み出すかを促すみことばに出会います。ギリシャ語の世界でも「考える」と訳される言葉は多種多様です。そして日本語でも「考える」という概念は実に多様かつ豊富で、広がりがあります。鑑(かんが)みる・考え込む・判ずる・思考・思案・思索・思量・思惟(しい)・考察・考量・思慮・尊慮・深慮・熟慮・熟思・熟考・黙考・沈思・静思・瞑想(めいそう)・論断・決断・意図・志向等々、豊富です。

「ソクラテス問答」、「対話・問答」において大切なのはリーダーがどのような問いを発すかが鍵となります。聖書を読み、その意図を考える上で、また引き出されたみことばの原理原則に基づき、日常において具体的にどう一歩を踏み出せるかを決断するまでに適切な問いが投げかけられる必要があります。隠された解答を見つけ出すための問いでは決してありません。(続く)

2017年9月15日金曜日

聖書の「基本原則」

C-BTEの五つの基本概念 
   1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方(承前)
 3.「建て上げ」という考え方(承前)
 4.「ハビタス」としての神学(承前)
 5.聖書の「基本原則」

聖書の「基本原則」: 聖書の「基本原則」についてはラベル「基本原則」の項でも確認いただければと思います。今回は最後の二つの基本概念、「ハビタス」と「基本原則」はC-BTEパラダイムの考え方の中で「なぜ、神学教育か」を中心に考えさせられる基本概念である、という視点から記したいと思います。

原理原則はあらゆる分野で事を発展させるなくてはならい概念です。創造主がご自分の「かたち」として創造された人間のキリストにある再創造の御業においても例外ではないようです。神の救いの御業はある意味、超自然的な業でありますが、同時に私たちの思考の領域で考え方を変える取り組みによって実現していくことが明確に記されています。

クリスチャン生活の核心的なこと: キリストによる福音理解について、特に「新生」についてローマ人への手紙6、12章を読みますと、福音を信じた者は福音に基づいて意志的に考え、これまでの考え方を変え、その新たな考え方に基づいて見える仕方で生き方を変えることが必要不可欠である、ということです。まさに本来の「神学する」という行為そのものに他なりません。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。--- このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(6:3-4,11)。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(12:1-2)。

つまり、聖書の基本原則に基づいて私たちの思考の領域を変え、実際の生き方を変える取り組みはクリスチャン生活の核心的なこと、聖書の世界観を確立するとても重要な取り組みです。そうであれば聖書の基本原則が何であるのかを明確に知る必要があります。見逃すことのできない大枠はキリストの福音と福音に基づく生き方に関する教えです。その上でビルドのテキストでは「神の家族である教会」、そして教会を構成する「各家族」の建て上げの中で福音に基づく生き方の基本原則を明らかにしております。

この聖書の基本原則に基づいてこそ、聖書的に考える考え方を確立し、神の再創造の御業が何であるかを考え、具体的に実現していくことになります。さらにより具体的に考え、福音、神の再創造の御業を踏まえて聖書を読み、考え、さらに基本原則が何であるのかを明らかにしていくことになります。

包括的C-BTE の五つの主要方針:「キリストと使徒たちの手法」に基づく
1.C-BTEは神の家族地区教会の生活と諸教会の活動に根差していなければならない。 
2.C-BTEはどうしたら忠実な人々に健全な教義を委ねていけるかを第一義的に考えるためのものであると理解されなければならない。
3.C-BTEは教会を建て上げていく過程の中で用いられなければならない。
4.C-BTEは年齢、職業、性別に関係なくすべてのクリスチャンに必要なものと考えられなければならない。 
5.C-BTEは信仰の「基本原則」の学びから始められなければならない。

結論:C-BTEとは
1.C-BTEとは指導者を訓練するための、新しいが古い、「キリストと使徒たちの手法」に基づくパラダイムである。 
2.C-BTEとは、次世代指導者(リーダー)を生み出していくために新約聖書のモデルに戻ることである。
3.C-BTEとは、伝道・牧会、学問的な学び、人格の成長・発展における調和のある学びである。
4.C-BTE とは「ハビタス」(知恵の伝統)としての神学の本質を取り戻すことである。

2017年9月14日木曜日

「ハビタス」としての神学(2)

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方(承前)
 3.「建て上げ」という考え方(承前)
 4.「ハビタス」としての神学(承前)
 5.聖書の「基本原則」

最後の二つの概念、「ハビタス」と「基本原則」はC-BTEパラダイムの考え方の中で「なぜ、神学教育か」を中心に考えさせられる基本概念です。

基本概念4.「ハビタス」としての神学という考え方(2)

「ハビタス」の基本概念を考えたとき、「神学をする」、すなわち聖書が何を言っているかを読み取ることです。その上で、「ハビタス」を定義すれば、ハビタスとは年齢や職業に関係なくすべての男女に必要な生涯の知恵を追求する魂の方向性、と言えます。

ハビタスの手法
段階1: 聖書の基本原則を理解し、その基本原則を念頭に置き、聖書的に考える能力を発展させる。
神学的識別力を発達させ、聖書の「基本原則」を理解し、聖書的に考える力を育成する。
基本原則シリーズⅠ:「神の家族」、シリーズⅡ:「家族」、シリーズⅢ:「神の救いのご計画」を解釈する原則

段階2: 生涯にわたる知恵の追求「ハビタス」の土台を発展させる。
信仰に成熟する為の一つが知恵に裏打ちされた人生の方向性に発展していくことである。
参照: 箴言2:1~9, 詩篇90:10~17

段階3:  生涯に渡る聖書理解を追い求める。
私たちが求める神学は奥義としての「教会」主体でなければならない。神の家族・信仰の共同体全体が「神の救いのご計画」のうちに成長し、日々の生活に、その真理を適用していく必要がある。基本原則を念頭に福音書を読み、イエス・キリストの教えの意図を理解し、その上で旧約聖書を読み、さらに理解を深める。

ライフワークを確立する生涯学習: ハビタスの手法を理解し、クリスチャンとしてのライフワークを確立する生涯学習を実現していきたいものです。なぜか、今日の多くの教会では本格的で、秩序立てられた教育体系が欠如しているように思います。ユダヤ人のような生涯教育体系、バルミツバー、タルムードのような問答等々、このような教育体系を保持した最後のグループはピューリタンと呼ばれる人たちと言われています。

「聖徒の建て上げ」は説教のみにあらず: 今日のプロテスタント教会の多くは日曜日礼拝を中心とした集まりになっています。しかも、プログラムの大半を占めるのが牧師の説教です。教会によっては一人の牧師が何十年にも渡って説教し続けています。説教自体を否定するものではありませんが、このままでの説教が個々人のクリスチャン建て上げにどれだけ貢献しているかです。もちろん多くの教会は週日に聖書の学び会や祈り会を持っています。しかし、出席者は教会全体のどれほどの割合でしょうか。後に改めて紹介しますが「学習者主体」の聖書の学びを再考すべきなのではないでしょうか。「学習者主体」の聖書の学びが着実に取り組まれることによって、牧師の説教が聖徒たち揺るぎない信仰建て上げになお一層、貢献できるものと期待します。

16世紀宗教改革によって、中世カトリシズムのパラダイムを大転換したプロテスタント諸教会が生まれました。何百年もの間、一般のクリスチャンは聖書の学びはなく、サクラメント(典礼)中心の信仰生活が続いていました。前後しますが、チューリッヒで改革を進めたツヴィングリはそこ集まる会衆に聖書の講解説教を行い始め、会衆は大きな感動を持ってみことばの解き明かしに耳を傾けたと記されています。一方、先人を切った宗教改革者マルチン・ルターは各地の教会を巡回する中で会衆はもちろんこと、牧師たちも聖書の基本的な教えを理解する必要を覚えて「小教理問答」、「大教理問答」を作成し始めたと言われています。言うなら聖書の基本原則、基本教理を対話・問答によって理解し、その基本を心におさめ、念頭に置くことで講解説教はより理解できるようになると考えられます。そして「小教理問答」は各家庭の父親が子供たちと行うように勧められました。「教理問答」はプロテスタント諸教派にも同様に広まりました。つまり「聖徒の建て上げ」は説教のみにあらずを理解すべきです。しかし、いつしか説教中心のみの教会が多くなってしまったのがプロテスタントの現実です。

では、具体的にすべての人のための神学的教育はどこから始まるのでしょうか。聖書の「基本原則」からです。先に記した神学的意図から執筆されたのがBILDインターナショナルから出版された基本原則シリーズⅠ~Ⅲです。翻訳の制約を超えて私たちの教会建て上げを再考させてくれるリソースであると思います。的確にC-BTEのパラダイムを理解し、また、なぜC-BTEなのか、問題意識を共有して、その上でこの国の文化の中で神学し、この国のクリスチャンたちのためにリソースを出版できるのが理想です。私たちもそのように実現するよう進められています。その前に大事なのは問題意識、共有できる神学的パラダムの理解です。

「ハビタスの手法」に基づくC-BTE 基本原則シリーズ 14冊
Ⅰ. 信仰の基礎:「神の家族」
Ⅱ. 実りあるライフワーク:「家族」
Ⅲ. 聖書の正しい学び方:「聖書神学」の原則

2017年9月13日水曜日

「ハビタス」としての神学

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方(承前)
 3.「建て上げ」という考え方(承前)
 4.「ハビタス」としての神学
 5.聖書の「基本原則」

最後の二つの概念、「ハビタス」と「基本原則」はC-BTEパラダイムの考え方の中で「なぜ、神学教育か」を中心に考えさせられる基本概念です。

基本概念4.「ハビタス」としての神学という考え方: 「ハビタス」はラテン語 habitus(ハビトゥス )の音訳で「習慣」です。その語意は人の性行に深くしみこんで、生まれながらの性質のようになる、とあります。つまり、「ハビタス(習慣)」の意図することは反復によって習得し、少ない心的努力で繰り返せる安定した行動を生み出すことです。そういう意味では日本語の中にある「習い性となる(ならいせいとなる)」とか、「習慣は第二の天性なり」などは「ハビタス」の意味するところを的確に表現しています。習慣もたび重なると、人の性行に深くしみこみ、ついには生まれながらの性質のようになってしまうということです。「習慣」が人の性行に影響することにおいて、いかに大であるかを示しています。すなわち、「ハビタスとは習慣とすることや実践することで得られる完成、あるいはぶれない状態、情況」です。つまり、人間が理性と思考の追求を通して手に入れた性質ないし気質を意味します。

神学的視点から言えば、神の知識と知恵を追求することで手に入れた習慣がその人の内性、気質、振る舞い、つまり聖書の言う「心構え」(ピリピ2:1~5)となるということです。聖書の中には明確に、信者一人一人が神のことばを真剣に学ぶ者であり、人生のすべての場面で聖書的に考えることを学ばなければならない、という命令が与えられています。福音の核心的な教え、キリストにある「新生」、すなわち神の再創造の御業を正しく理解し、その約束を考え、思い巡らし、そして現実の日常生活において具体化することです。

問題提起: しかし、ハビタスとしての神学について『基本原則を教える』ガイドに以下のように問題提起が記されています。「日々聖書から神についてより深く学ぶこと、すなわち、いかに魂を正しく導くかという知恵を得るはずの神学(聖書、聖書原語、重要な文献の学び等を通して)、またどのような状況にある人にとっても必要な学び(神学)であるにもかかわらず、牧師などの専門職の備えのための学問的な学びに置き換えられてしまっている」(参照:Developed by Edward Farley in Theologia: The Unity and Fragmentation of Theological Education)。

全生涯に渡る発展的な学習: 現代の西洋文明の中で、日本も例外ではなく、私たちは魂の方向性の原則を、学問的知識を得る目的と捉え、専門的な働きをする知的学問の追究に傾斜してしまったというわけです。こうした核心的な問題点を自覚し、聖書に戻って再考するハビタスのプロセスは各個教会共同体での生活、いのちの交わりの中でなされる神学教育の聖書的原則をもう一度確立する方法、手法として提供していることに注目していただきたいのです。しかし、今日のクリスチャン教育が個々人の全生涯に渡る発展的な学習であるべきにもかかわらず、各世代、分断された統一のない教育になっているのが現状ではないでしょうか。「基本原則シリーズⅠ,Ⅱ,Ⅲ」はこうした問題意識の上に編集されています。

知恵: とりわけ旧約聖書が書かれたヘブル語のホクマー「知恵」はハビタスの実際的な定義を見事に説明しています。(知恵)は文字通りには「生きるうえでの技能」という意味で、精神的技能(聖書的に考える能力)と生活技能(正しく人生の選択をする能力)の両者の開発、発展を意味しています。そういう意味で「ハビタス」の手法は普遍的な真理と言えるのではないでしょうか。

私たちの文化の中でも「習慣は第二の天性」という表現があることに触れましたが、ハビタスとは人種、職業、性別等に関係なくすべての人間が一生涯に渡って身につけなければない「魂の方向性」と言い得ると思います。

箴言4章1~9節
子どもらよ。父の訓戒に聞き従い、悟りを得るように心がけよ。
私は良い教訓をあなたがたに授けるからだ。私のおしえを捨ててはならない。
私が、私の父には、子であり、私の母にとっては、おとなしいひとり子であったとき、父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。
知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。

聖書の学びが知的学問の習得に終わらせず、同時に神の民としての生き方に関わる知恵を得ることを目的とすることです。(続く)

2017年9月12日火曜日

「建て上げ」という考え方(補足)

C-BTEの五つの基本概念、
 1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
 2.「委任」という考え方(承前)
 3.「建て上げ」という考え方(承前)

先回、「建て上げ」という考え方について、最後に「パウロは福音宣教のために開かれた門を目の前にしても、既存の地区教会の建て上げに無関心のまま、新たな地への福音拡大を優先するようなことはなかった」ということにふれ終えました。このことについてもう少し補足しておきたいと思います。

「建て上げ」について「パウロ書簡」の時間的推移を見ますと、教会が十分な建て上げとなる一つの過程をたどることができます。神が後々の教会のために、「建て上げ」の原則を示すために摂理のうちに霊感された書簡として聖書を構成しているように思わせられます。

初期のパウロ書簡:ガラテヤ、テサロニケⅠ,Ⅱ、ローマ人への手紙では福音に基づく教会建て上げが中心に記されています。

つまり、若い教会は福音と福音が意味するところに従ってしっかりと「建て上げ」られて欲しいとの思いから書かれています。

テサロニケ人への手紙Ⅰ,Ⅱ:キリストの再臨に関する教理的なゆがみが結果的に無責任な生き方を助長してしまいました。

コリント人への手紙Ⅰ,Ⅱ:教会に広がる不一致、教師に対する人間的発想、道徳行為の乱れ、結婚に関する誤解、離婚や再婚について、また、律法主義、賜物と奉仕等々、また教会の中の人々を教え、勧め、正そうとする人々を拒み、むしろ、統一を乱す人々に耳を貸してしまう。

ローマ人への手紙:福音に基づく自由な生き方の喪失(14章)、良心に基づいた生き方の喪失、結果的に他の信仰者自身の良心に基づく生き方を裁いてしまう。

中期のパウロ書簡:エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙では教会に対する神のヴィジョンに基づく教会建て上げの使命を読み取ることができます。若い教会がキリストとキリストのご人格とキリストのご計画において一つ心になることを願って記された書簡です。

エペソ人への手紙:教会内に解き放たれた力に対する認識の欠如、つまり、悪魔の策略にしっかりと立ち向かう力の欠如が指摘されています。さらに、教会を建て上げるためにそれぞれが果たすべき役割を成し遂げるための成熟度の欠如を克服すべき必要がありました。

ピリピ人への手紙:全教会がひとつ心になって福音の進展のために取り組もうとする思いの欠如がありました。ある人たちはあるグループとは共に戦えないという人たちの存在があったようです。

コロサイ人への手紙:キリストのものではない違った人物、違った指導原理を持つ哲学の信奉があるべき信仰をゆがめてしまう現実が指摘されています。さらに、この世のもの(地上のもの)に心を奪われ、神の家族、教会にも家庭にももたらされる不和の実態が指摘されています。

ピレモンへの手紙:キリストのご計画に参加するために、一つ心になって取り組めない実生活体験の事例です。現実にある奴隷制度、しかし、主にあるが故の社会的(身分)立場を越えた兄弟愛の実証例を確認することができます。

後期のパウロ書簡:教会の成熟、正しく機能する持続可能な教会共同体(神の御住まい)としての教会建て上げを確認することができます。若い諸教会が、成熟した指導者の指導の下で、適切な秩序を保ち成熟した神の御住まいとなるようにとの思いから書かれた書簡です。しかもクリスチャンの成熟度は教会内では勿論のこと、地域社会でも評判を得る生き方であることを示しています。

Ⅰテモテへの手紙:教会はいつも惑わす霊と悪魔の教理を避けることができない現実を知るべきでした。

テトスへの手紙:多くの者が教会に入り込み、異なる教えによって教会の核となるべき家族のあり方を混乱させている現実、また福音を飾る生活になっていないことへの警告、逆に聖書の権威が汚されている現実です。福音に基づく「良いわざ」は愚かな論争にまさるものであることをしっかり認識する必要がありました。

Ⅱテモテへの手紙:自分たちに都合のよい事を教える教師を集めるようになる教会への警告、同時に多くのキリスト者が信仰から脱落する現実を指摘しています。

このようにパウロは主の宣教大命令にいのちがけで取り組むと共に、同時に同等の熱意を持って取り組んだのが、生まれた神の家族、教会の建て上げ、つまりクリスチャン個々人の建て上げを教会で取り組むように示されたのでした。まさに教会こそ、人を建て上げる最良の場、真のいのちの共同体なのだということです。