C-BTEの五つの基本概念、
1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
2.「委任」という考え方(承前)
3.「建て上げ」という考え方(承前)
先回、「建て上げ」という考え方について、最後に「パウロは福音宣教のために開かれた門を目の前にしても、既存の地区教会の建て上げに無関心のまま、新たな地への福音拡大を優先するようなことはなかった」ということにふれ終えました。このことについてもう少し補足しておきたいと思います。
「建て上げ」について「パウロ書簡」の時間的推移を見ますと、教会が十分な建て上げとなる一つの過程をたどることができます。神が後々の教会のために、「建て上げ」の原則を示すために摂理のうちに霊感された書簡として聖書を構成しているように思わせられます。
初期のパウロ書簡:ガラテヤ、テサロニケⅠ,Ⅱ、ローマ人への手紙では福音に基づく教会建て上げが中心に記されています。
つまり、若い教会は福音と福音が意味するところに従ってしっかりと「建て上げ」られて欲しいとの思いから書かれています。
テサロニケ人への手紙Ⅰ,Ⅱ:キリストの再臨に関する教理的なゆがみが結果的に無責任な生き方を助長してしまいました。
コリント人への手紙Ⅰ,Ⅱ:教会に広がる不一致、教師に対する人間的発想、道徳行為の乱れ、結婚に関する誤解、離婚や再婚について、また、律法主義、賜物と奉仕等々、また教会の中の人々を教え、勧め、正そうとする人々を拒み、むしろ、統一を乱す人々に耳を貸してしまう。
ローマ人への手紙:福音に基づく自由な生き方の喪失(14章)、良心に基づいた生き方の喪失、結果的に他の信仰者自身の良心に基づく生き方を裁いてしまう。
中期のパウロ書簡:エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙では教会に対する神のヴィジョンに基づく教会建て上げの使命を読み取ることができます。若い教会がキリストとキリストのご人格とキリストのご計画において一つ心になることを願って記された書簡です。
エペソ人への手紙:教会内に解き放たれた力に対する認識の欠如、つまり、悪魔の策略にしっかりと立ち向かう力の欠如が指摘されています。さらに、教会を建て上げるためにそれぞれが果たすべき役割を成し遂げるための成熟度の欠如を克服すべき必要がありました。
ピリピ人への手紙:全教会がひとつ心になって福音の進展のために取り組もうとする思いの欠如がありました。ある人たちはあるグループとは共に戦えないという人たちの存在があったようです。
コロサイ人への手紙:キリストのものではない違った人物、違った指導原理を持つ哲学の信奉があるべき信仰をゆがめてしまう現実が指摘されています。さらに、この世のもの(地上のもの)に心を奪われ、神の家族、教会にも家庭にももたらされる不和の実態が指摘されています。
ピレモンへの手紙:キリストのご計画に参加するために、一つ心になって取り組めない実生活体験の事例です。現実にある奴隷制度、しかし、主にあるが故の社会的(身分)立場を越えた兄弟愛の実証例を確認することができます。
後期のパウロ書簡:教会の成熟、正しく機能する持続可能な教会共同体(神の御住まい)としての教会建て上げを確認することができます。若い諸教会が、成熟した指導者の指導の下で、適切な秩序を保ち成熟した神の御住まいとなるようにとの思いから書かれた書簡です。しかもクリスチャンの成熟度は教会内では勿論のこと、地域社会でも評判を得る生き方であることを示しています。
Ⅰテモテへの手紙:教会はいつも惑わす霊と悪魔の教理を避けることができない現実を知るべきでした。
テトスへの手紙:多くの者が教会に入り込み、異なる教えによって教会の核となるべき家族のあり方を混乱させている現実、また福音を飾る生活になっていないことへの警告、逆に聖書の権威が汚されている現実です。福音に基づく「良いわざ」は愚かな論争にまさるものであることをしっかり認識する必要がありました。
Ⅱテモテへの手紙:自分たちに都合のよい事を教える教師を集めるようになる教会への警告、同時に多くのキリスト者が信仰から脱落する現実を指摘しています。
このようにパウロは主の宣教大命令にいのちがけで取り組むと共に、同時に同等の熱意を持って取り組んだのが、生まれた神の家族、教会の建て上げ、つまりクリスチャン個々人の建て上げを教会で取り組むように示されたのでした。まさに教会こそ、人を建て上げる最良の場、真のいのちの共同体なのだということです。
1.「C-BTE」:「教会主体の神学教育」(承前)
2.「委任」という考え方(承前)
3.「建て上げ」という考え方(承前)
先回、「建て上げ」という考え方について、最後に「パウロは福音宣教のために開かれた門を目の前にしても、既存の地区教会の建て上げに無関心のまま、新たな地への福音拡大を優先するようなことはなかった」ということにふれ終えました。このことについてもう少し補足しておきたいと思います。
「建て上げ」について「パウロ書簡」の時間的推移を見ますと、教会が十分な建て上げとなる一つの過程をたどることができます。神が後々の教会のために、「建て上げ」の原則を示すために摂理のうちに霊感された書簡として聖書を構成しているように思わせられます。
初期のパウロ書簡:ガラテヤ、テサロニケⅠ,Ⅱ、ローマ人への手紙では福音に基づく教会建て上げが中心に記されています。
つまり、若い教会は福音と福音が意味するところに従ってしっかりと「建て上げ」られて欲しいとの思いから書かれています。
テサロニケ人への手紙Ⅰ,Ⅱ:キリストの再臨に関する教理的なゆがみが結果的に無責任な生き方を助長してしまいました。
コリント人への手紙Ⅰ,Ⅱ:教会に広がる不一致、教師に対する人間的発想、道徳行為の乱れ、結婚に関する誤解、離婚や再婚について、また、律法主義、賜物と奉仕等々、また教会の中の人々を教え、勧め、正そうとする人々を拒み、むしろ、統一を乱す人々に耳を貸してしまう。
ローマ人への手紙:福音に基づく自由な生き方の喪失(14章)、良心に基づいた生き方の喪失、結果的に他の信仰者自身の良心に基づく生き方を裁いてしまう。
中期のパウロ書簡:エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙では教会に対する神のヴィジョンに基づく教会建て上げの使命を読み取ることができます。若い教会がキリストとキリストのご人格とキリストのご計画において一つ心になることを願って記された書簡です。
エペソ人への手紙:教会内に解き放たれた力に対する認識の欠如、つまり、悪魔の策略にしっかりと立ち向かう力の欠如が指摘されています。さらに、教会を建て上げるためにそれぞれが果たすべき役割を成し遂げるための成熟度の欠如を克服すべき必要がありました。
ピリピ人への手紙:全教会がひとつ心になって福音の進展のために取り組もうとする思いの欠如がありました。ある人たちはあるグループとは共に戦えないという人たちの存在があったようです。
ピレモンへの手紙:キリストのご計画に参加するために、一つ心になって取り組めない実生活体験の事例です。現実にある奴隷制度、しかし、主にあるが故の社会的(身分)立場を越えた兄弟愛の実証例を確認することができます。
後期のパウロ書簡:教会の成熟、正しく機能する持続可能な教会共同体(神の御住まい)としての教会建て上げを確認することができます。若い諸教会が、成熟した指導者の指導の下で、適切な秩序を保ち成熟した神の御住まいとなるようにとの思いから書かれた書簡です。しかもクリスチャンの成熟度は教会内では勿論のこと、地域社会でも評判を得る生き方であることを示しています。
Ⅰテモテへの手紙:教会はいつも惑わす霊と悪魔の教理を避けることができない現実を知るべきでした。
テトスへの手紙:多くの者が教会に入り込み、異なる教えによって教会の核となるべき家族のあり方を混乱させている現実、また福音を飾る生活になっていないことへの警告、逆に聖書の権威が汚されている現実です。福音に基づく「良いわざ」は愚かな論争にまさるものであることをしっかり認識する必要がありました。
Ⅱテモテへの手紙:自分たちに都合のよい事を教える教師を集めるようになる教会への警告、同時に多くのキリスト者が信仰から脱落する現実を指摘しています。
このようにパウロは主の宣教大命令にいのちがけで取り組むと共に、同時に同等の熱意を持って取り組んだのが、生まれた神の家族、教会の建て上げ、つまりクリスチャン個々人の建て上げを教会で取り組むように示されたのでした。まさに教会こそ、人を建て上げる最良の場、真のいのちの共同体なのだということです。
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