なぜ、「ソクラテス問答」: C-BTEの学習手法として「ソクラテス問答」が紹介されています。しかし、仮にその学習手法に合点したとしても、「なぜ、聖書に基づく取り組みにソクラテスを引き合いに出すのか」と疑問を呈する方も少なくありません。結論から言えば「問答」の手法についての表現にこだわる必要はありません。その意図、内容、「対話・問答」の手法を正確に捉えることが肝心です。
時代、時代には特有の思潮: 歴史を振り返ると、その時代、時代には特有の思潮があり、その影響を受けて価値観や物の見方、日常生活の様式まで変革をもたらしています。1549年、日本へのキリスト教伝来と共に信仰だけに限らず自然科学、哲学など人文科学の分野まで影響をもらしました。そして長い鎖国の時代がありましたが、江戸幕藩体制から明治維新への移行はヨーロッパ近代思想を受けての大きな変革は顕著な例です。
影響を受けるということではキリスト教も例外ではありません。キリスト教界で何の疑念もなく受け入れられている学問の一つ「組織神学」はまさに時代の思潮の変革の中で生まれた学問です。古くはギリシャ哲学、そして近世の合理主義の延長線上に体系化されました。「組織神学」それ自体は決して否定されるものではありません。ただ明確なのは、その体系が聖書の意図ではなく、人間側の学問的な意図から生み出されたものだということです。そして今回、取り上げている「ソクラテス問答」はその真逆の例です。
「ソクラテス問答」: C-BTEが目指すのはまず、聖書の意図、「信仰による神の救いのご計画」に基づいてクリスチャン人生の方向性を確立することです。ここに知恵の伝統「ハビタスの手法」に戻る必要があり、そして「ソクラテス問答」その手法を理解する必要があるわけです。
ソクラテスは紀元前400年頃の哲学者でありますが、その頃すでに同様の「対話・問答」が聖書の世界でもなされていたとうことです。ユダヤ教のラビたち、またユダヤ人の親子の教育的対話においても「それでは、あなたはどう考える?」と、子供自身の発想を促す問答がなされているとのことです。言うなら「問答」は普遍的な手法であったと言えます。
考えさせる問い: 先回、「ハビタスの手法」、知恵の伝統に立ち返ることについて紹介しました。知恵は一方的に教えられ、指示されて生まれるものではありません。日常体験に即して「考える」ことから生まれます。そして、基本的な教え、原理原則に基づいて考える過程において、適切な「問い」が発せられることにより、考えはより広がり、また深まります。人は本能のおもむくままに生きる存在ではなく、「神のかたち」として創造された人間、自ら持つ規範に基づいて取捨選択し、決断し、意志する人格的存在であることの特性、そのものを示しています。
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」(ロマ8:5)。
「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい」(Ⅱコリント10:7)。
「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます」(Ⅱテモテ2:7)。
「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」(ルカ12:27)。
聖書においては単に規則を与え、指示するだけでなく、原理原則に基づいて「考え」、そして日常においてどう一歩踏み出すかを促すみことばに出会います。ギリシャ語の世界でも「考える」と訳される言葉は多種多様です。そして日本語でも「考える」という概念は実に多様かつ豊富で、広がりがあります。鑑(かんが)みる・考え込む・判ずる・思考・思案・思索・思量・思惟(しい)・考察・考量・思慮・尊慮・深慮・熟慮・熟思・熟考・黙考・沈思・静思・瞑想(めいそう)・論断・決断・意図・志向等々、豊富です。
「ソクラテス問答」、「対話・問答」において大切なのはリーダーがどのような問いを発すかが鍵となります。聖書を読み、その意図を考える上で、また引き出されたみことばの原理原則に基づき、日常において具体的にどう一歩を踏み出せるかを決断するまでに適切な問いが投げかけられる必要があります。隠された解答を見つけ出すための問いでは決してありません。(続く)
時代、時代には特有の思潮: 歴史を振り返ると、その時代、時代には特有の思潮があり、その影響を受けて価値観や物の見方、日常生活の様式まで変革をもたらしています。1549年、日本へのキリスト教伝来と共に信仰だけに限らず自然科学、哲学など人文科学の分野まで影響をもらしました。そして長い鎖国の時代がありましたが、江戸幕藩体制から明治維新への移行はヨーロッパ近代思想を受けての大きな変革は顕著な例です。
影響を受けるということではキリスト教も例外ではありません。キリスト教界で何の疑念もなく受け入れられている学問の一つ「組織神学」はまさに時代の思潮の変革の中で生まれた学問です。古くはギリシャ哲学、そして近世の合理主義の延長線上に体系化されました。「組織神学」それ自体は決して否定されるものではありません。ただ明確なのは、その体系が聖書の意図ではなく、人間側の学問的な意図から生み出されたものだということです。そして今回、取り上げている「ソクラテス問答」はその真逆の例です。
「ソクラテス問答」: C-BTEが目指すのはまず、聖書の意図、「信仰による神の救いのご計画」に基づいてクリスチャン人生の方向性を確立することです。ここに知恵の伝統「ハビタスの手法」に戻る必要があり、そして「ソクラテス問答」その手法を理解する必要があるわけです。
ソクラテスは紀元前400年頃の哲学者でありますが、その頃すでに同様の「対話・問答」が聖書の世界でもなされていたとうことです。ユダヤ教のラビたち、またユダヤ人の親子の教育的対話においても「それでは、あなたはどう考える?」と、子供自身の発想を促す問答がなされているとのことです。言うなら「問答」は普遍的な手法であったと言えます。
考えさせる問い: 先回、「ハビタスの手法」、知恵の伝統に立ち返ることについて紹介しました。知恵は一方的に教えられ、指示されて生まれるものではありません。日常体験に即して「考える」ことから生まれます。そして、基本的な教え、原理原則に基づいて考える過程において、適切な「問い」が発せられることにより、考えはより広がり、また深まります。人は本能のおもむくままに生きる存在ではなく、「神のかたち」として創造された人間、自ら持つ規範に基づいて取捨選択し、決断し、意志する人格的存在であることの特性、そのものを示しています。
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」(ロマ8:5)。
「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい」(Ⅱコリント10:7)。
「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます」(Ⅱテモテ2:7)。
「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」(ルカ12:27)。
聖書においては単に規則を与え、指示するだけでなく、原理原則に基づいて「考え」、そして日常においてどう一歩踏み出すかを促すみことばに出会います。ギリシャ語の世界でも「考える」と訳される言葉は多種多様です。そして日本語でも「考える」という概念は実に多様かつ豊富で、広がりがあります。鑑(かんが)みる・考え込む・判ずる・思考・思案・思索・思量・思惟(しい)・考察・考量・思慮・尊慮・深慮・熟慮・熟思・熟考・黙考・沈思・静思・瞑想(めいそう)・論断・決断・意図・志向等々、豊富です。
「ソクラテス問答」、「対話・問答」において大切なのはリーダーがどのような問いを発すかが鍵となります。聖書を読み、その意図を考える上で、また引き出されたみことばの原理原則に基づき、日常において具体的にどう一歩を踏み出せるかを決断するまでに適切な問いが投げかけられる必要があります。隠された解答を見つけ出すための問いでは決してありません。(続く)
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